而今
心をととのえるスヌーピーの今回は。。。
ルーシーが弟のライナスに、「あなたはいつも。。。」と小言を言おうとしたところ、ライナスから「いつもっていうなよ。人生に”いつも”はないんだ」と反論されるという話。
「人生に”いつも”はない」
ライナスの真意はいま一つ掴み切れないけれど、「いつもいつも」というルーシーからの小言を回避するために「日々状況は流転し、同じように見えることも変化している。”いつも”と一括りにしないでほしい」と言いたかったのかと思います。
ちなみに、充てられた禅語は「而今」
にこん、と読みます。
今ここ、この今、というような意味です。
人はつい、過去と未来ばかりを意識し、今を見落とします。今を見落とすと、常に時の流れの中に自分を置き、過去と未来の比較の中で迷い、時の流れの中での交々に右往左往します。しかし、今ここに意識を置けば、時の流れに翻弄されるのではなく、自分の中に時の流れを置き、自らの中に万象を立ち上げていく。
「而今」は、いまひとつライナスの言葉とは嚙み合っていないなと感じはするのですが。。。 まあいいでしょう。
同じように見えても、つねに物事は流転する諸行無常であるということ。
そのことに身をゆだねれば、過去と未来の比較の中で迷い、時の流れの中での交々に右往左往することもない。
まあね、それはそうなのですが、現実の生活の中でそんなことをしていると、瞬く間に生活も仕事も破綻しますw そんな生活が許されるのは、坊さんだけですよ。
ただ、生活の全部がそんなことでは破綻をしますが、そもそもの生きていく意識としては、それで良いのかもしれないと思います。
子供たちを見ていると、いつも思う事。
それは、空白の時間を耐えることが出来ない、ということ。
我が家の子供に限らず、かもしれません。
外的な何かを自分に流し込まないと、自分の存在する時間や空間を埋めていくことが出来ない。
つまらない例えですが、例えば公園のベンチに座ってボンヤリと時を過ごせるか否か。
外から自分を強制的に埋めてくれるものが何もない状態。それはまさに、自分の中に時の流れを置き、自らの中に万象を立ち上げていくという事だと思います。
風がそよぎ、肌を撫でる感触。
自身を包み込む音の情景。
滲む汗に感じる気温や湿度。
陽の光の霞むような眩しさ。
土から立ち上がる蒼い匂い。
そういうものを自ら取り込み、感じることそのもので自分自身を満たし、時を過ごすということ。
それは、自分自身と世界をどう交わらせるのか、ということ。
外的な何かを自分に流し込まずにいられないということは、時間との交わりの主導権を、自分の外側に奪われるということだろうと思う。
仕事がどうとか、家事がどうとか、そういう個別具体の生活活動は、それはもちろん呑気な悟りのようなことは言っていられない。
でも、それ以前に、如何にこの世界に自分を置くのかという基本的なスタンスは、それとはまったく別のことだろう。
而今の在り方ゆえの穏やかな心持ちがあるからこそ、日々の交々に本当に没入できる。ありていに言ってしまえば、生活のメリハリということ。
本当に過酷に生活を営む人というのは、どこかでぽっかりと抜くことが出来ないと死んでしまう。
裏を返せば、そういう抜き方をしていない人は、日々の生活に没入することも出来ていないだろうな、と。
そんなようなことを実感して生きてきたつもりだったりします。。。
何の話だっけ。。。
まあいいや。
ではでは。