年々歳々花相似 歳々年々人不同
心をととのえるスヌーピーの3回目です。
パティはこう言います。
「私たちには、希望といい思い出が必要。それが無いと人生ボロボロよ」
でもフランクリンは…
「3っついい思い出があったんだけど、忘れちゃった」
年々歳々花相似 歳々年々人不同
花は毎年同じように咲くけれど、人は変わってしまう。
自然の悠久さと、人間の儚さが謳われています。
しばらくは「今を大切に」というテーマが続くので、同じような禅語が出てきますね。
今が楽しいことに没入できるのは、子供の特権です。でも、こどもだって悲しいことや、あしたに不安を感じることもあります。フランクリンが、思い出なんて忘れちゃった、と気軽に言えることは、幸せの証ですね。
年々歳々花相似 歳々年々人不同
そうでしょうか。
どうなんだろうと、私はちょっと思います。
自然は悠久ですが、今日咲いた花と同じ花は、もう二度と咲きません。
人は年と共に変わっては行きますが、その人そのものはそんなに変わるでしょうか。良い意味でも、悪い意味でも。
変わらないことは素敵なことだと思いますが、変われないことは宜しくはありません。わたしは、変われないことの不安が一番の心の負担かもしれません。今ここの良し悪しではなく、変われることでの先が見えないこと。
大学の恩師のある言葉は、今も私の物事を考えるということのスタンスの、とても大切な根幹になっています。だいぶ以前にここでも書いたことがあるかもしれません。
「飢えるとは、どういうことか分かるか。腹が減って死にそうなことそのものは、ただの空腹。そして、あと3日すれば食べられるという事が分かっているのなら、なおさらそれは空腹でしかない。次にいつ食べられるのか、まったく分からない状況。それが飢えるという事なんだ」
人は、自分の未来がどうなるのか見えない事には、絶望しません。見える手立てが見えない事、そこに絶望します。
それならば、見えるようにすればよい。努力不足ではないのか。
確かにそうかもしれません。
でも、アフリカの奥地で、なすすべもなく飢える人たちに、努力を語ることには何の価値も意味もありません。
私はどうでしょうかね。
努力不足と言われてしまえば、返す言葉もありません。
未来とか、夢とか、希望とか、そういう概念は、どこから出てくるのでしょう。
まだ人間が、我々の言うところの未開文化であった時代。
人間は、未来とか、夢とか、希望とか、そういうことを考えたのでしょうか。
おそらく、現在の我々が思い描くような、未来とか、夢とか、希望は持たなかったのではないかと思います。まさに、今ここだけ。ある意味で、子供のようなものです。
でもそれは、選択的に得たものでも、努力で得たものでありません。
そもそも、そういうことを考える概念が、というか、そのような意味においての「考える」という行為自体がなかった。
変わらなくていい。
今ここのままで良い。
現代は、一般論としてはそれは悪しきことと捉えられます。
より豊かに、より上位に、より発展的に。それを求めない人間は怠惰と定義されます。変わらないところに選択的に自らを置くという事は、そういう近代的な生活規範から外れる、ということです。
現代において、変わらないことを選択的に選べるという事は、現状の維持が可能だという見通しが立っているという事です。精神的にも、経済的にも。
それが、「足るを知る」、つまり失うものが無いということであったとしても、「豊かに過ぎて何も先行きに不安がない」、つまり失う心配がないということであったとしても、幸せなことです。
自然が悠久であるというのならば、それは自然はただそこに在るだけであり、見通しなどからは無縁だから。
人間が儚いというのならば、それは常に人が未来が不安であり、過去にとらわれるから。
老いという未来をネガティブに捉えない人は、老いることへの恐怖も抵抗も薄い。
同じことでしょう。
未開の時代に、儚いなどということは、誰も思わなかったに違いありません。
儚いということは、人が作り出した感性です。
人は本来、ただ移ろうのみなのです。
何の話でしたっけ。
自分で書いていて、よく分からなくなってたりして。。。
ではでは