ぴのぴののなんでも日記

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こどもの頃から日記は大嫌い。夏休み・冬休みの日記も最終日に書いたなあ。書き込み、カテゴリ少ないけど、どこでも大歓迎です。リアル記録をここに残してます。

『どうする家康 ぶらり富士遊覧』の考察して寝ます

テレビ

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先週の悲劇回の後、タイトルから見て一休みのおちゃらけ
と思っていたら、武田家があっという間に滅びちゃうし、
全国各地はどうなってるかがわかんないまま、富士遊覧ばなしに長尺を使い、ふぬけイメージを植え付けての、最後の最後の爆弾発言で幕・・・。えびすくいに辟易してたら・・。
 これは、「本能寺の変」超新説のための地ならし回ということなのか!!
 伏線ばらまいて、きっと回収しないものも多々あっての伊賀越え突入に行くのでしょうか。

 では「ぶらり富士遊覧」の考察です。

・穴山梅雪が仲間になっているが、武田勝頼よりも直接、築山・信康に接触して悲劇の策士なのになぜ容認してんだろ。
・勝頼の最期は雑兵にやられた?切腹じゃないのか?
・明智が俄然出てきたのは、今後の足蹴の逆ブレの伏線でしょう。さて家康の宣言と本能寺まで40日!!この期間
「明智を実行犯に仕立てあげるのか」「伊賀ものを使って特殊部隊でも組むのか」「結局、偶然、明智に先を越されたにするのか」「明智は天海和尚になるか」「さらに秀吉がどうからむか」たぶん記録の無い40日間は脚本書き放題なので、新説大希望します。
・伊賀越えのため、伊賀もの100人のかくまったことで、脱出ルートを確保の下地ということか?この裏にいるのが、服部半蔵+本多正信か?
・やったら、情報漏洩、寝返りの多いので、どんでん返しが仕掛けやすいよなあー。
・いま、お市はどうしてんだろう。
                   かな?
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  • ぴのぴの

    ぴのぴの

    2023/07/13 23:58:22

     ユーミさん
     毎週、どうもありがとうございます!!
     合戦大ファンにとっては、今年好演の新説武田勝頼の華々しく悲劇的な最期を期待してました。
     岡部元信はただ者では無かったのですね。納得です。
     着々と本能寺カウントダウン。
     いったい誰が絵を描いたのか!
     もう、とことんぶち壊して欲しい気がします。

  • ユーミ

    ユーミ

    2023/07/13 16:13:08

    実際はどうだったか分かりませんが、ドラマでの秀吉は家康が信長に対して不穏なものを抱いている事を察知して、その動きを注視しています。
    次回予告では、家康が信長を討つ事を期待している様にしか見えませんでした。
    家康を注視していたからこそ本能寺の変を逸早く察知出来、大返しを成功させられた、というところではないでしょうか?
    実際は、光秀の毛利宛の密書を入手出来たから、だったと思いますが。

    少し気になったのは、初登場の羽柴秀長の秀吉への「にいさま」という呼び方。
    「あにさま」もしくは「あにさ(兄さ)」だったら違和感は感じなかったのですけどね。

  • ユーミ

    ユーミ

    2023/07/13 16:00:14

    三河物語は家康称賛物語であって信長を格別に持ち上げたりはしていないので、却ってこの記述は事実なのでは? と思えるんですよね。

    まぁ、それでも勝頼と息子信勝の首級は京に送られて晒されるんですけどね。
    しかしこれは、信長が甲州討伐の前に勝頼を朝敵させてしまっていたため、首級を晒すのが当時の慣例だったので、それに従っただけ、と言えます。
    かつて反乱を起こした平将門が、討たれた後に京で首級を晒されたのと同じです。

    信長の富士遊覧については、信長公記に詳しく記載されているらしいですが、読んだ事がないのでドラマ以上の事は殆ど分かりません。
    本栖湖(逆さ富士を眺めたところ)→人穴富士講遺跡→浮島ケ原→富士浅間神社(家康がえびすくいを踊ったところ)→田子の浦→富士川→蒲原→三保の松原・羽衣の松→江尻城→駿府→安倍川→宇津ノ谷峠→田中城→掛川城→浜松城
    という順番で、天竜川は舟橋(船の上に板を敷き詰めて作る仮設橋)で渡河したそうです。

    吝嗇家として有名な家康が莫大な費用をかけてもてなした事で信長は大変満足し、ドラマ後の紀行でも紹介されたとおり刀と馬を贈っており、また後日に黄金と兵糧を贈っています。
    これでかけた費用は殆ど回収出来たらしいです。

    近づく本能寺ですが、結局偶然明知に先を越された、に一票です。
    流石に明確な史実は動かさないと思いますので、明智軍による本能寺襲撃は絶対でしょう。
    信長の遺体が発見されなかった事の史実ですので、そのあたりを衝くシナリオはあるかもしれませんけど。
    わざわざ伊賀から逃げて来た伊賀者を匿っているのですから、そのあたりはうまく使って欲しいものです。

    光秀=天海説は、「麒麟が~」の光秀ならアリですが、今回の光秀では遠慮したいです。
    あまりにも小物すぎて、よくこんなのを重用するな、と思えてしまっているくらいですので。

    秀吉との絡みは、どうなるでしょうね?
    ネットでは、家康と秀吉のW黒幕説が現実味を帯びた、という意見もありますが、個人的にナシです。
    瀬名が勝頼と手を結んでしまったばかりに慈愛の国の構想が破綻してしまった様に、陰謀は(瀬名の場合は陰謀ではないですが)誰かと手を組む場合はその相手は非常に重要。
    秀吉は勝頼以上に手を組む相手として不適切です。
    家康も昔から秀吉を嫌っている様に描かれて来てますしね。

  • ユーミ

    ユーミ

    2023/07/13 15:10:01

    穴山梅雪は武田の一門衆で、彼の妻は信玄の娘(勝頼の姉)である見性院です。見性院の母親は、信玄の正室である三条夫人ですので、側室諏訪御寮人の息子である勝頼よりも血統の正しさを誇っていたと考えられます。
    武田家は穴山梅雪と見性院との子である勝千代継ぐことになりますが、それを強く希望したのは、梅雪よりも見性院の方だったかもしれませんね。

    ドラマでの梅雪は、瀬名の慈愛の国構想に感じ入って勝頼に取り次いだ感じでした。
    勝頼が瀬名の策を暴露すると決めた時、人心が離れます、と思いとどまる様に諫言してましたし。
    勝頼が諫言を聞き入れず暴露した為の瀬名と信康の悲劇となりましたので、梅雪も思う所があったのでしょう。
    あくまでもドラマでは、ですが。

    実際は、勝頼の代になって信玄時代と違って梅雪は遠ざけられてましたし、織田との無理ゲーな交渉を担当させられてましたし、勝頼が新たに築こうとしていた新府城の為に重税をかけられてましたし(梅雪だけではなく、武田配下の全ての国衆が重税に苦しんだ模様)、裏切りの要因は山ほどあったのでは、と思いますね。

    勝頼の最期は、討ち死に説と自害説があります。
    記録によって異なるので、どちらが正しいのか不明です。
    ドラマでは討死説をとってましたね。これもカッコ良かったですが、自害説の方も中々泣けるものになっています。
    まずは息子の信勝が敵(多分滝川一益軍)に斬り込んで、敵兵を斬り殺せるだけ斬り殺した後、共に斬り込んだ麟岳和尚という僧と刺し違えて亡くなります。享年16歳でした。
    その後、勝頼の正室(継室で北条氏政の妹。先妻の龍勝院は信長の姪で養女。信勝生母ですが早死にしています)である北条夫人は北条家に戻る様に促されたもののそれを拒否し、武田勝頼の妻として死にます、と自害。
    妻の死を見届けた勝頼は、十文字に腹を掻っ捌き腸を自ら取り出して投げ捨てた後、北条夫人と折り重なるように倒れて亡くなった、とされています。
    討死説の方が現実味がありますが、自害説はドラマティックですね。

    勝頼の首級は信長の前に運ばれるのですが、この際に信長が首級に向かって罵倒したという説がありますが、三河物語には「日の本に隠れなき武将であったが運拙くこのような事に相成った」と勝頼の武勇を称賛した、とあります。
    真相がどちらなのか不明ですが、個人的には三河物語の説をとりたいところです。

  • ユーミ

    ユーミ

    2023/07/13 14:23:03

    こんにちは^^

    ナレーションで済まされる可能性もあると思っていた武田滅亡が、思いの外しっかり描かれていた事に驚きました。
    触れられもしない、と思っていた高天神城攻めも、飛ばし気味とはいえ描かれていましたし。

    多少追加するなら、高天神城の城将岡部元信は、城内で討死したのではなく、まだ動ける者達600名程を率いて場外に討、そこで、そこで壮絶な討死を遂げたと言います。
    また、城内に入った徳川勢が見た者は、打って出た者達の数倍に及ぶ餓死者だったそうです。
    どれだけ凄惨な光景だったかと思うと、少々背筋が寒くなります。
    秀吉の城攻めでは珍しくない光景かも、と思いますが(三木城の干殺しとか鳥取城の飢え殺しとか有名ですし)、家康の場合は今回の高天神城攻めくらいかな?
    元々家康は野戦が得意な武将なので、城攻めの有名所は思い浮かばないですね。

    岡部元信が高天神の城将に選ばれたのは、今川家が健在の頃に彼が今川の水軍を束ねていたかららしいです。
    駿河を征して海を手に入れた武田は、元々は内陸国で水軍を持っていなかったので、駿河の水軍をそのまま武田水軍として組み込んだみたいなんですね。
    そして高天神城は、今でこそかなり内陸に位置していますが、当時は海岸線が現在よりかなり陸側に入り込んでいたため沿岸部の城という位置づけで、水上交通の要でした。
    高天神城は小笠原信興という武将が城将でしたが、この人は今川から徳川、徳川から武田、武田からまた徳川、更にまた徳川から武田、とコロコロと寝返る人だったので要衝を任せるには信用が無い、ということで元々遠江に所領を持っていた岡部元信に地縁もあるということで任される事になったんですね。

    岡部元信は桶狭間の戦いの時に鳴海城を守っていて、鳴海城の開城と引き換えに討たれた今川義元の首級を取り返して駿府に戻った忠臣でしたので、信用度も段違いだったのでしょう。

    全滅した高天神城には、岡部元信配下の駿河衆だけではなく、甲斐衆や信濃衆もいたため、援軍を送らずに見捨てた勝頼の評判は、より一層地に落ちて広がった様です。
    国衆という存在は、大名が守ってやるからこそその大名に従うのであって、守ってくれない大名からは簡単に離れていきますからね。
    そうなる事を見越した信長の戦略が図に当たった、ということでしょう。