もえーん

諸行無常

日記

心をととのえるスヌーピー 4回目です。

諸行無常

おそらく、80篇ちかい心を整えるスヌーピーの中で、唯一誰もが聞いたことのある禅語、というか仏教用語ではないでしょうか。

諸行無常に限りませんが、仏教的な観念は、往々にして”世捨て人”を連想させます。しかし、そもそも”世”とは何でしょうね。世とは、言葉通りにはこの世界そのものを指すわけですが、ここで言う”世”とは、非常に近代的な世界観ではないかと思います。

釈迦という人物は、いいとこの坊ちゃんです。紀元前の人ではありますが、極めて文化的な生活の中にいた人物です。だからこそ、仏教という教えは生まれたとも言える気がしています。要するに文化的で、その意味において知的であるが故に、生の「意味」を抽象論的に考えてしまう。

では、そうではない人たちはどうなのか。
無知で、非文化的なのか。



仏教には、諸行無常、諸法無我、涅槃寂静という三つの考え方からなる、三法印という原理があります。
では、釈迦のように、都会人で博学で文化的であった人たち以外は、こういった考え方には到達できないのか。


私は仏教徒ではありませんので、あまり知ったようなことは言えないのですが、恐らくそうではない気がしています。
むしろそういった人たちは、ナチュラルボーン三法印だと感じています。前回の3回目でも書いたこととも被るのですが、彼らは極めて素直に「今」を生きています。より発展する、より高収益を上げる、より高い地位に登る、そういった将来への希望や羨望、欲望はそもそもの原理論として存在していないのではないでしょうか。
彼らは「今」を生きていて、日々はずっと同じことの繰り返しです。同じことの繰り返しとは諸行無常とは相反するようですが、細部においては諸行無常でありつつ、全体論としては”終わりなき日常”という、同じことの繰り返し。そして当たり前のように諸法無我で、自らは世界と一体であり、常に世界によって生かされているもの。
故にそのような”終わりなき日常”という世界の在り様に何の疑問もなく、素直に「今」を生きているが故に、涅槃寂静である。
現実的には、彼らなりの社会の中での妬み嫉み、欲望があるはずですが、そこではないレイヤーにおいて、ナチュラルボーン三法印なのかと感じています。


ライナスはこう言います。
「どんなことも永遠に続きはしない。良いことはすべていつか終わる」

その言葉を受けたチャーリーブラウンは、少し考えて言うわけです。
「良いことはいつ始まるんだい?」

良いことは、始まらないのです。
でも、悪いことも始まらない。
いや、良いことも悪いこともきっとあるのですが、もう一つ上のレイヤーにおいて、何も始まらず、終わらない。”終わりなき日常”の中で、ただ生まれ、ただ育ち、生き、そして死んでいく。

別に彼らは、涅槃寂静という解脱の領域に達し、悟りを開いたわけではありません。
ある意味で、そもそも悟っている。


ですが、現代の、いわゆる文明社会に生きる人は、そんな寝言を言っては生きていくことはできません。
ですが、三法印を明確に意識しつつ、しかし現実的な社会生活をこなすことに無理はないかもしれません。とても下世話なことを言えば、都会でバリバリ働いていた人が田舎に移住してセカンドライフを送るなんていうのは、実はそういう事なのかもしれません。

おそらく敬虔な仏教徒にそんな話をすると、論外と一蹴されてしまいそうです。
でも、物事を難しく考えず、徹底的に単純化して俗世間的な現象に落とし込むと、意外とゴールは近いのかもしれません。

今、犬くんが隣でイビキをかいて寝ていますが、彼は間違えなく解脱し、悟りの境地に達していますね。食い物に関しては、意地汚いですがw


余談です。。

今から30年ほど前。
当時のオウム真理教の上祐史浩さんと、私の友人の会話で面白いものがありました。
上祐さんは言うわけです。欲望を断ち切り、解脱を求めているのだと。
しかし友人は、こう切り返しました。
「でも、解脱したい、という思いは、ある意味で欲望ですよね。それと、ブランド物のバッグが欲しいという欲望は、何が違うのですか?」
上祐さんは、回答できませんでした。

罪を問われなかった幹部の人たち、今は何をしているのだろう。
元気なのかな。。。