道長は何故欠けていく満月に己の栄華を仮託したか?
二本読んだ内容は、「藤原道長はなぜ十六夜の日に【望月の歌】を詠んだのか」。
日本史の授業では、自身のこのうえない栄華を何一つ欠けたところのない満月になぞらえたと習った
「この世をば我が世とぞ思う望月の欠けたることも無しと思えば」は、
モチーフに選ばれた満月に反して満月の翌日、十六夜の月の日(十六日)に詠まれました。
そうなると既に欠けた月に、道長が満足した「我が世」を重ねるのは不自然です。
ではこの歌にこめられた道長の真意とは?
それぞれ結論は違いますが、どちらも面白かったです。以下要約。
A論
・この世とこの夜、月と杯(つき=盃)をかけている
・「我が世」は「私の一生」の意
・月は后の隠喩(前例:源氏物語、古今和歌集)で、道長の娘三人が立后した「未曾有」の占有を完璧な望月に喩えた
↓
「満月はやがて欠けるが、三人の娘が后の座を占めた私の生涯と、今この宴で酌み交わされている盃は満ち足りている」と、月よりもずっと不変の何一つ不足ない満足の時を詠んだ。
B論
・「この世をば我が世」と思ったのも「欠けたることも無し」と思ったのも月であり、主語は道長ではない
・昨日の満月も今日にはもう欠けていることを儚い栄光になぞらえた
↓
一見傲岸不遜・有頂天に見える内容だが、栄華の危うさを歌意に込め、だからこそ実資はこの和歌を「優美」と評した。