なんちゃって その②
続きになります。
高名な数学者や物理学者が、最終的に熱心なキリスト教信者となっていくような話が、よくあります。
そんな人たちと自分を並べて語ろうとは思いませんが、しかしレベルの高低はともかく、そういう事なのかと思います。
この世界の真理とは何か。
そこに近づけば近づくほど、答えは遠のいていく。
あまりにも深く、果てしのない、深淵の彼方。
遥か彼方に霞む、この世界の真理。
なにか人智の決して及ばぬ大いなる意思によって、この世界は司られている。
そう考えなければ、もはや行きつく先もない。
きっと、彼らはそう結論づけるしかなかった。
そういう事なのだろうと思います。
如何に化学が発展しようとも。
如何に人類がこの世界の真実に近づこうとも。
いや、近づけば近づく程に見えてくる、あるものの存在。
それは、仮に人がこの世界の真理に辿り着くことが出来たとしても、決して踏み越えてはならない、覗いてはならないもの。
そこが、神の領域。
理解や解釈といった、人間の思念によっては辿り着くことを許されない領域。
人間には、踏み越えてはならない領域が、確実に存在している。
そのことへの畏怖の念を失った時、人は真の意味において堕落し、この世界から追放されていく。
わたしは、そう思っています。
キリスト教は、進化論を否定する。
世界は神が作られたものであり、進化などという自然の摂理のよるものではない。
よく言われることです。
なにを言っているのでしょうか。
創世記を、よく読めばよい。
それは、まさにこの宇宙と、そして生きとし生けるものの歴史。
神は、この世界を創造したなどと言う即物的なことを言うから、進化論の良し悪しなどという話になる。
そうではなくて、神は進化というその摂理そのものを司ったにすぎません。その摂理による生けるものの営みを、ただ眺めていただけです。
キリスト教の最も大きな立脚点として、原罪というものがあります。
人は、生まれながらに罪を背負うものとして存在している。
原罪とは、遡ればアダムとイブの失楽園の話となります。
知恵の木の実を食べること。
それは、神の領域に踏み込もうとする冒涜であると。
そして神は、そのアダムとイブを叱咤し、エデンの楽園から追放しました。
愚かな人の知を以て神への畏怖を忘れ、堕ちていく。
人は悪事を人から教わらない。
人は生来のものとして、罪を背負い、悪に身を染めていると。
私はそうは思いません。
確かに、人は弱く、常に悪への誘惑に駆られているのかもしれません。
如何に良くあろうとしても、常に邪悪な誘惑に駆られるものでしょう。
でも、私は思います。
人の悪とは、原罪を犯した人への神の所業の意味を直視しないことに依るのだと。
私は思います。
罪とは、希望なのだと。
それは、神が人に望んだ希望だとも言えます。
アダムとイブは、言ってしまえばエデンの園で、鼻水を垂らしながら、阿呆の様にえへらえへらと笑いながら、蝶々を追いかけていただけです。
そんな彼らは神の怒りをかってエデンの園を追放されるのですが、神は彼らに要約すればこう言います。
イブはお腹を痛めて、苦しんで子供をうむことになる。
アダムは、生涯に渡り汗を流して土を耕し、食べ物を得ることになる。
そしてお前たちは、塵となり土に帰るのだ。
それは罪ゆえなのでしょうか。
私はそうは思いません。
産み育て、日々の糧を得る苦しみの中で生きていく。
その営みから、この世界に生きている実感と意味を掴み、自らが大いなるものに生かされていることを理解し、畏怖と感謝の念にひれ伏していく。そして再び、自らの浅はかさを胸に、神の元に帰ればよい。
自らの生きてていることの在り様を、見つめる機会を与えられた。
私はそう思います。
罪とは、神が与えられた希望なのです。
だからこそ、神は彼らをエデンの園から追放する時、羞恥心を知った彼らのために、皮の衣を与えます。見放すのではなく、暖かく送り出すが如く。
私はそんな感じなので、いわゆるクリスチャンではないのかなと思っています。
なので、洗礼を受けるという事に抵抗感があります。受けたくない、ということではなく、私の様な人間は洗礼を受けるに値しないと思っている、ということです。
そういえば、クリスマスの話でしたねw
完全に忘れていました。
個人的には、なんの感想もありません。
せっかくイベントとして楽しんでいるのなら、別にそのことに目くじらを立てなくてもよいでしょう。
とういうか、どうだっていいのです。
私は、わたしの想いにしたがい、大いなるものの前に跪きたい、ただそれだけです。外野の雑音に興味はない。それだけです。
おもしろくもない話をグダグダと、誠にすみません。
きりなく話を続けてしまいそうなので、この辺で終わりに致します。
では。。。
もえーん
2024/01/02 12:29:36
>はみさん
信仰とは、信じ仰ぐものに無条件に帰依し献身することではありますが、わたしはそれは信仰の最後の到達点だろうなと思っています。
無条件に帰依し献身しなければ信仰ではないと多くの人は思うのかもしれませんが、それは信仰ではなく宗教への隷属じゃないかなと思います。考え、汲み取り、否定し、そして他の宗教も取り込みながら、信じ仰ぐものに向き合う私とは何なのかを問い、そしていつか「解釈する」ということをやめるべき時が訪れるのだと思っています。
その先に、初めて信じ仰ぐものに無条件に帰依し献身する自分が現れなければならない。そこまではずっと信仰の手前なんだと思います。
はみ
2024/01/01 15:07:23
大作でしたな。長かった。。でも読み応えはありました。
西洋美術に興味を持ったことをお話したかどうか記憶が定かではないのですが、
ちょうどそのような時にこのような内容を拝読できたことがとても嬉しい。
考えだしたらキリがない。これが真実です。
でも考えなければいられない。これもまた真実です。
宗教なんて何でも良いし、持論を崇拝したって構わないと思います。
仏教にも似たような記述はあるし、神はどのような形にせよ人間の中に存在します。
私は日本の神々が好き。信仰は特にしていませんが。それで良いと思ってます。
クリスマスも、本来の意味を知識として得ていれば、自由で良いですよね~。
ま、知らずに楽しんでも、楽しければいいと思いますけどね^m^