ゲシュ崩ログ 379 なにもなにも
子供の通う園からの宿題で「こどものいいところは?」とある。何が素敵なところですか。子供のどこが素敵ですか。こういう時、なにか一つ習い事とかあったら、習い事でこうこうしたので、頑張っていて凄い。とかいう風に書けて、いいなぁと思う。実際、習い事してるなんて凄い。知識も社会性もつく。凄い。素敵。でも習い事とかしていない野生児なわが子。社会の一員として素敵なところといわれてもなぁ。親としてはこうだこうだと思っても、それは一般的に普通ですよ…。っていう感じのことがいっぱい。一体わが子は、特筆して素敵な点などあるだろうか?と思った。よくよく考えてみれば、凄いところなんて無いよなぁ…。と思った。夫(神)に相談し、「自分の子供どこが素敵?」って聞いてみたらら、「コミュ力がある」と言っていた。子供のコミュ力なんて…と思うし、そんなの普通だし、それにそんなにコミュ力あるのか?と思った。一人っ子だし、外で一体どんなコミュニケーションしているか、不安しかない。そんな私に堂々と「わが子はコミュ力がある」とはなかなか書けなかった。最終的に、でも私がたどりついたわが子の特筆して素敵な部分というのが、
「…うちの子のいいところは…………かわいい。じゃないか」
と夫(神)にそう伝えたら、ブっと噴き出して「親が当たり前に皆そう思ってるし」と言われた。だが私には、うちの子特別英才教育しているわけでもないし、そこまで特筆して凄いことを成し遂げた事もないし、今のところは一番いい点といえば…もう、「かわいい」しか…。と真剣に私には、そうとしか思えなかった。実際かわいいかどうか、顔が凄く美人とかそういう意味ではない。
千年前から続いているオタク女のえげつない「かわいい」論
1000年前のオタク女め…と思うのが、清少納言氏のかわいい論である。千年前からずっと、オタク女はことあるごとにそうやってキモ男を挑発するかのごとくかわいい論を語っていたのか…となんだか現代にもある摩擦の原型を見てしまうかのような、清少納言のかわいい論。かわいいとは、なにもなにも、ちいさきものはみな美しいと断言した。ちいさいもの=かわいいと言ってしまった清少納言の文章を読んで、いったいその時代の男性はどう考えていたんだか。清少納言が天才女流作家として激しい嫉妬の的になったのは、想像に難くない。それでも空気を読まずということなのか、オタク特融の「あえて読まずに推しを推す!」という情熱が、「なにもなにも小さきものはみなうつくし」という文章に情熱がほとばしって感じられる。ちいさきものはみなうつくしい。
ちいさいものがみなかわいい、という事が、そういう価値観がすでに1000年前からあったという事なので、まぁ、小さい小さい子供を見て、「小さい」といわず、「かわいい」と言っても、そこまで変なことを言ってるつもりが、私には無いんですけど、夫(神)にいわせてもらえば、お前ばかか、という事になるのだろう。私は最近、子供にも夫にも莫迦だと思われている。というか、私を莫迦だと思わない人のほうが、少数派みたいです。悲しいです。