ぴのぴののなんでも日記

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こどもの頃から日記は大嫌い。夏休み・冬休みの日記も最終日に書いたなあ。書き込み、カテゴリ少ないけど、どこでも大歓迎です。リアル記録をここに残してます。

『光る君へ 第13回』先週から何年経った??

テレビ

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  改変期とプロ野球開幕の重なる空白期間。今週からの春ドラマ第1回目連発シーズンがいよいよ始まるなあー。年間シードの大河ドラマだけは2度観習慣が定着だ。

 では「光る君へ 第13回」の直後考察です。

  • ・さらっと聞き逃してしまったけど、道隆中関白家?というのは、一条天皇が元服かつ結婚したから、道兼摂政は無くならず、道隆関白と併存、ということかな??

  • ・「中」は大、中、小とさらに分解される?

  • ・「皇子」かどうかも分からん。って、DNA検査はできないっしょや。
  • ・いとの服装が一層よくなっている。正妻?でも無職でもう何年も経っているのに。さわも裕福そう。

  • ・公任の父は逝去。いよいよ道兼ブレインへ一歩前進。はんにゃは何してんだろうね。

  • ・佐々木蔵之介の(バカ)息子が適齢期なのかー。わかってるとはいえ、その親父の妾かあー。
・ロバート、今後味方の気配。

・明子の呪詛は髪の毛じゃなく、扇でいいのかい!安倍晴明をちょっとだけ出したのは、兼家逝去にやはり一枚かんでいる伏線。

  • ・今回とおして、道兼のボケは、前回と同様の「仮病」と見ますがいかに??後継者指名のため、家族、周辺の動きを見極めてる感じ。

・兼家が固執する「家」がすべて思想に、道長は兼家逝去前に変質するのか、もっと後のどこかの時点で「民」重視思想を捨てるのか、みものです。

  • ・結局、今週も先週に道兼が口にした「例の件」は伏線のまま?進展ないよなあー。

・枠外で春日神社の「山」は三笠山だと思っていたあ。

 次週はいよいよ、道兼没でしょう。扇の呪詛が出て来るよねえ。それにしても明子暗過ぎ。

                     かな?
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  • ユーミ

    ユーミ

    2024/04/05 21:46:33

    その為道長は、何度も関白就任を要請されながらそれを固辞し「内覧」に留まりました。

    一条天皇や三条天皇、特に三条天皇は道長を関白にして政務の中枢から追いやりたかったらしいですけどね。

    道長は一度も関白になる事はなく、摂政となった時期も短いですが、彼の息子の頼通(よりみち)は50年も関白を務めました。
    道長が作った御堂流によって摂関政治は最盛期を迎え、孫の代以降は院政が始まって摂関政治は終焉を迎えますが、それでも道長の御堂流の嫡流である「摂家」が摂関となる慣例が成立していきます。
    戦国時代末期の関白として有名な近衛前久は、道長の遠い子孫になる筈。
       

  • ユーミ

    ユーミ

    2024/04/05 21:29:01

    こんばんは^^

    質問をいただいたので、こちらで回答します。

    まず摂政と関白及び内覧について。
     摂政…幼少の天皇の代理として政務を行う。祭事を除いた天皇が持つ大権の代行者。
        天皇が成人すると摂政を辞めるのが原則。
     関白…「関(あずか)り白(もう)す」という中国は前漢の故事が由来。
        天皇への奏上、天皇から下す命令の全てに関与、成人した天皇を補佐し助言を行う。
        ただし最終決裁者はあくまでも天皇。
     内覧…天皇に奏聞する文書、天皇から宣下される文書を、他に先立って目を通し天皇の政務を
        補佐。
        準関白的立場ながら、目を通せるのは太政官の文書のみ(関白は全ての文書)。

    摂政は天皇の代理なので関白より権限は大きいですが、天皇が元服して成人する迄の間だけという時間制限があります。
    摂政と関白は基本的に並び立ちません。

    ちなみに道長は、書いた日記が御堂関白記と呼ばれていますが関白になった事はありません。
    彼は後一条天皇の時に摂政になりましたが、それまではずっと「内覧」&「左大臣」でした。
    また、摂政になった翌年には長男に摂政の座を譲っています。

    道長が何故関白にならなかったか、と言うと兼家の所為です。
    一条天皇の摂政になった兼家ですが、その時点の彼は右大臣であり上位者として太政大臣と左大臣がいましたので、摂政であっても太政官としてはNo3に過ぎませんでした。そこで兼家がとった手段が、右大臣を自任し准三宮(三宮とは太皇太后・皇太后・皇后の事で、准三宮はそれに准じた地位)として三公(太政大臣・左大臣・右大臣)の上席となる「一座宣旨」を受けてトップに立ちました。
    ここはドラマでも描かれてましたね。

    兼家としては自身がトップに立つための苦肉の策だったのではないか、と思いますが、これ以降は摂関と太政大臣が陣定(じんのさだめ)の指導を行う「一上(筆頭公卿)」にならない(なれない)慣例が生まれてしまい、摂関が太政官を直接指導する事が出来なくなりました。要するに陣定に出席できなくなったんですね。天皇臨席の場合はOKだった様ですが、天皇がNOと言えば出席NG。

    この状況を天皇に利用されれば、関白になってしまうと下手をすると政治の重要な会議から締め出されてしまう、という事です。

  • ユーミ

    ユーミ

    2024/04/04 15:17:55

    呪詛の媒体は髪の毛などの体の一部だけでなく、日常的に愛用している品物でも良かったのでしょうね。
    だから扇でもOK.
    子が出来た、と道長に告げた時でも笑顔ではなかった明子が、兼家の扇を手に入れた時に笑み崩れていたのは怖かったです。背筋がゾクッとしました。
    また、どうやら痴呆症を発症したらしい兼家が、明子に向かって「お父上は御息災か?」と尋ねたシーン、「え?あんたがそれを聞くの?」とあわあわしている道長にシンクロしてしまいました。
    「父は太宰府から帰ってから身罷りました」と表情一つ変えずに答える明子も怖い><
    道長が耐え切れずに席を立ってしまったのも無理ありません。

    安倍晴明が兼家から寿命の事や後継者について尋ねられたシーンは、兼家が自分の腹心の藤原在国(ふじわらのありくに)、平惟仲(たいらのこれなか)、多米国平(ためのくにひら)に後継について問うた、という「古事談(鎌倉時代の説話集)」から来ていると思われます。
    ドラマでは、晴明は自身の意見を明言しませんでしたが、古事談では在国が道兼を推し、惟仲と国平が道隆を推しました。後に後継者として関白になった道隆は道兼を推薦した在国を憎み官職を奪った、とされています。

    急速に衰えた兼家の状態は、別に明子の呪詛の効果というわけではなく、単に兼家の寿命だろうと思いますので、晴明も関わってはいないと思います…多分。関わる理由が無いですし。

    「ボケ」が仮病かどうかは分かりません、私には。
    個人的には痴呆症の「まだらボケ」だな、と思いましたけど。
    次回予告には剃髪して出家した姿がありましたね。
    兼家は出家の二か月後に亡くなります。

    兼家が固執する「家」が全てという思想は、別に兼家だけのものではないですね。
    上級貴族たちが熾烈な出世競争をするのも、結局その為ですから。
    困窮の極みにある紫式部の家と、栄華の極みにある兼家の家、数代も遡れば同じ家です。
    出世してそれを我が子に継がせなければ、待っているのは没落という厳しい現実があるわけです。

    道長の今後は、ドラマの展開を待つしかないです。
    そもそも民生の記録がどの程度あるのやら。
    酷すぎる国司が辞めさせられた、という記録はありますけど…

    疫病が流行した際、道長が庶民の為の救い小屋を作った、という話はありますね。

  • ユーミ

    ユーミ

    2024/04/04 14:30:33

    こんにちは^^
    前回までは986年で、今回から990年ですので4年経過したという事ですね。
    ドラマでスルーされたのは、正味3年というところでしょうか。

    道隆の中関白家は後世の呼び方ですが、二通りの解釈があります。
    1.兼家系統の2番目の摂関であったから。
    2.自身の血統による摂関独占を確立した父兼家と御堂流を確立した弟道長との間の中継ぎだったから。
    なんとなく2番目の解釈が主流っぽく感じられます。
    やはり摂関政治を完成させ全盛期を築いた道長と比較すると、道隆はどうにも影が薄いです。
    それは後世の人間の目から見てであって、当時はそんなことは無かったと思いますが、歴史をしっているとどうしても…ね。

    中関白家の「中」は上記の様な意味合いですので、大中小に分解されることはありません。

    いとは息子の乳母であり「召人」ですので嫡妻たりえません。
    着ている服が良いとか、そうは見えませんけど。

    さわの着物が上質なのは、彼女の父親(現時点では未登場)がちゃんと官職を得ていてそれなりの収入があるからでしょう。
    あまり顧みられていないとの事ですが、虐げられているわけではなさそうです。

    宣孝には少なくとも男子が5人いる筈ですが、嫡男と思われる男子は990年に17歳くらいなので、そろそろ適齢期と言えなくはないかも。

    藤原実資が今後道長の味方になる、ということは特にありません。
    後に最高権力者となった道長を批判することも多々あった様です。
    批判するだけではなく、道長の事を認めて政治の柱石と称賛してもいますので、殊更敵対してもいませんが。
    道長の方は実資をけむったく思ってはいても尊敬もしていたらしいです。

    藤原公任の父頼忠は、前年の989年に亡くなりました。
    頼忠が亡くなって太政大臣の席が空いたので、兼家が太sugimasenndeista政大臣に就いています。
    この頃の公任は昇進が停滞しており、自分より下の位階(従五位下)だった筈の道長があっという間に従三位権中納言にまで昇進したのに、公任自身は正四位下蔵人頭(しょうよんいげ、くろうどのとう)にすぎませんでした。一応備前守(びぜんのかみ)兼任かな?
    ドラマ通り道兼と親密で、後に(994年)道兼の養女と結婚しています。
    両者は反道隆で思いを共有していた様です。