ゲシュ崩ログ 414 お母さん、見てみて
子供と家にいて、家事してると「おかあさん、きて、これ見て」とよく言われる。遊んでる時も「みてみてーーー」と、何か乗ってる時とか自分を見て~と言ってくる。そういう時、ちょっと深い穴にすぽっ、とハマってしまうんですよねぇ。
欠落感
なんだか自分は人として大切なものが欠けている、と何度か親しくなった人に言われた事があるんです。そうなんだろうな、と薄々わかってますが、具体的に「じゃあ何?」と具体的な大切な何かを言葉にしてくれる人がいなかった。知能的な問題なのか…なんなのか。でも人として大切な感情の何かが死んでいる、という印象を、人は私と付き合うとそう感じるらしいんですね。何かわからんけど何かおかしい、みたいな。でもハッキリこれ、っていう程知能が足りないわけじゃなさそうだぞ…でもこいつ何か足りない、みたいな印象が私にはあるみたいで、何がどう違うのか、と私もモヤモヤしていたんですね。けど、子供が
「お母さんみて~~~」とはつらつにお母さんに見て見てと言う時、衝撃を受けた。
自分って、一回も親に自分を見て欲しいと思ってなかった気がする…と、子供の「見て~」に自分が何が欠けてたか少しわかった気がした。むしろ私は、親に自分の何かが見られるのが嫌だったな~という感じがしてた。なんか達成したものが壊されるのが嫌だったから。なんか、お宝を自分の巣に持ち帰ってため込むカラスみたいな性格してたんですよね。私って。
三四郎の親への想い
夏目漱石の有名な小説に三四郎というのがある。本の中で、三四郎が上京してさぁこれから自分は頑張るぞという時に、「これこれして頑張ったら出世する、そしたら偉いなんかなる、そしたら、最終的に自分のお母さんが喜ぶかもな」と想像した。というような、そういうような文章がある。意味的にそういう感じの文章があって。その時ちょっと、衝撃を受けたんですよね。大学生の青年が、色んな学問やらを頑張るぞ、と志すとき、名誉栄達のために頑張るのかというワケではなく、三四郎は最終的に世間の評価は母親に褒められるというゴールがあると考えてる。という文章があって、そこで何だか私は、人として一番大切な考え方ってこういう事なのかな~という気がした。なんかもう、そういう思考が一流って事かな~というか。
末法の世
末法の世とはどういう世の中なのか。末法は世紀末かと思いきや、過去にあったらしい。まだ未成熟な頃の日本では、飢餓や戦争流行り病なんかがあって人が餓死する事もいっぱいあった時代。そういう時は法律どうのなんかの前に、飢餓飢え死にというものが一番の問題になっちゃう。親が子を、子が親をあやめるという事もザラにあったらしい。飢え死にが普通っていうそういう時代は、令和時代には考えられない。むしろ飽食の時代に、飢え死にが普通だった末法の殺伐とした時代は考えにくい状態。でもそんな時代はあったらしく、衣食住事足りて礼節を知るのが人間だから、衣食住の足りない人間が家族間だろうが殺生を簡単にしていた。そんな事を思えば、「家族が大切だ」といえる人間というのは、本当に恵まれている、衣食住が足りていて、そこには人間が生きるうえで欠かせない大切なこころの健康が、あらわれていると思う。家族が好きだ家族のためになんかしたいと言う人って、本当にそれだけで幸せになる権利があると思う。それだけで何もかものいいものを手にしてほしいという気がする。
人が社会で社会生活を生きていくうえで、高度に哲学の浸透した現代では当然で当たり前すぎて言うまでもない親に褒められる事を最上の喜びとするという人間が、人としての形を獲得するのであり、そんな考え方のできない人間は、何かが欠けていると病気を疑われるんだと思いました。自分の経験から(笑)
父親に
いまだに何かしたら母親に見て欲しいとは思わないけれど、自分の父親に今の姿を見て欲しいかもしれない、という人間らしい心は私にもあった。特に見て欲しいからなんだというワケでもないんですけど。見たらなんかなるというワケでもないんですけど。でも見て欲しい。そんな気持ちが、完全になかった可能性もあるのに、少しはあった事に私は感謝しているし、そんな気持ちを持たせてくれた父に感謝してもしたりないのだった。子供の面倒を見ながら、「そういえば父親にそういう事をしてもらった」と、思い出したいから思い出してるワケでもないのに、自動的に子供を見てると思い出す親や、周囲の人々への感謝がしてもしたりない瞬間に泣きそうになる。
見てみて
子供がどういう気持ちで自分を見て~と言ってるのか、共感ができないというワケでもないんですが、ギクシャクした気持ちで見ている。なんだかスポっと穴にはまりながら、遠いところから望遠鏡で子供を見てるような気分で見てる。子供はこちらの気持ちも知らないで、楽しそうに今日もおしゃれして「見て~」と言っている。もちろんカワイイのでカワイイと今日も言っている。カワイイが本当にゲシュタルト崩壊しているんじゃないかというなんでもカワイイで言ってる。語彙の少なさがある我が家である。スマーフのスマーフ語みたいである。なんでもカワイイですまそうとしている私である。本当にカワイイはゲシュタルト崩壊していてもおかしくないです。子供のカワイイの感覚が少し心配だ。