浜名の小蝶
浜名湖には、微かに霞が棚引いている。東の空が明るさを増し、太陽が昇り始めた。光を反射して、キラキラと輝いていた霞も、いつの間にか姿を消して、小波に変わった。湖面で夜を過ごしていた水鳥達が、鳴き声を上げ飛び立つ。
湖の東側は、小高い丘に成っている。そこには
、二棟のログハウスが建っている。大型の建物は、Familyの住む母屋。隣接する小型の建物は、森のお風呂。前面に拡がる庭は、山野草の花々が咲き乱れる、素朴なEnglishGarden。建物の東側には、畑。五棟のビニールハウス。奥の岩盤から僅かな湧き水が滲み出ていて小さな池を造成する。
そこからの細い水路が、庭に潤いを生み出していた。庭の中央に、白樺の木が息衝いている。先程から、ここのFamilyの三姉弟が、白樺の枝を一心に見詰めている。その先には、一羽の蝶と一匹のクワガタが止まり、話をしている様子。
蝶 (Breakfastは、どうします?)
ク (そうだね~。辺りの様子が良く分からない)
会話を耳にした姉が、彼等に話し出す。
姉 (私達のFamilyは、今からBreakfastなの。
一緒に、如何ですか?)
蝶 (でも、見ず知らずの私達が、いきなり!。
失礼ではないでしようか?)
兄 (一緒に、楽しみましょう!)
弟 (遠慮しないで!)
ク (それでは、頂くことにしましょうか!)
丁度その時、ログハウスのドアが開き、母親が姿を見せる。そして、姉弟達に、(Breakfastですよ!)と、呼掛けた。姉は、(分かりました)と、返事をする。そして、(今出合った、蝶とクワガタさんも、一緒に連れていきす)と、続けた。
姉弟達は、ログハウスのドアを開き、彼等を中に招き入れる。BreakfastのTableには、既にFamily
の面々が座っていた。姉が、二人を紹介する。
促され、蝶が、(小蝶と申します)と。クワガタが
、(クワオと申します)と、挨拶した。
三姉弟の父親が、(私はKです)と自己紹介の後、Familyを。三姉弟の母親を(妻のN)、姉を(中学2年の長女T)、兄を(小学3年の長男Y)、弟を(小学1年の次男K)と。そして、石亀をかめ様、シヤムネコをチャムと紹介した。
それから、ドラえもんを紹介。彼は時々Breakfastに加わるらしい。今朝も、先程、✭どこでもドア✭を開き、出てきた、との事である。
皆んなで、(いただきます)と、声を合わせ食事を始める。小蝶の前には、薔薇の絵柄の皿に、辺りに自生する山野草から採られた良質な蜂蜜。クワオの前には、樹木の絵柄の皿に、父親Kがハウスで栽培している国産コーヒーの皮の粉末。
夫々が、思い思いにBreakfastを楽しんだ後、談笑Timeが始まった。先ず、小蝶の事を不思議そうに見ていたドラえもんから、小蝶への質問が!。
ド (どちらから、いらしたの?)
小 (千葉県の南房総から参りました。最初は、
母の故郷沖縄県宮古島から、次は読谷村、
大分県日田、香川県小豆島、岐阜県郡上
そして、先程、こちらに着いたのです。
移動手段は、総て銀河Expressのお世話に)
ド (そうなんですね!。私も、時々使います)
小 (それは、奇遇ですね)
ド (銀河Expressは、宇宙の隅々まで、張り巡ら
されております。ご存知ですか?)
小 (知りませんでした)
ド (私は、太陽系の外に在るS星雲のAと言う星
が、好きなんですよ。時々、この世の柵か
から離れて、リフレッシュしております)
周りで聞いていた者達は、★この二人は、一体全体何を話しているのだろう★と、ポカンとした表情を隠さない。
そんな雰囲気の中で、父親のKが、(二人の話している事は、深い意味で、核心をついている)、と、言葉を呟く。
そして、(私が学生時代に薫陶を受けたネランさんの文章だが)と前置し、話し始めた。
☆本当を言えば、神には概念などないのである。神はあらゆる概念を超えているからである、神について語るとき、その超越性を看過すると、途端に、わけの分からぬことになってしまう。神については、言えることより言えないことの方がはるかに多いのである。
まず、神が存在するかどうかという問題がある。一つの石が存在するのは、すなわち、その石が目に見え、それを手に触れることができるということである。人が存在するというのは、その人が現に生きているという意味である。
もし存在という概念をそういうふうにとらえるならば、神は存在しないと言ったほうが正しい。神が存在するのは、人間が存在するというときとは違って、あくまで(神的な存在において)なのである。
神に関して使用される言葉は、必ず、その都度、概念を規定し直さなければならない。神は創造者である。しかしそれは、神が人間を造ったという意味ではない。存在する万物は神に依存する、ということなのである。
神は、時間をも空間をも超えている。(あるとき神は人間を造った)というのを、字句どおりにとれば、それはナンセンスである。創造主にとっては、時間の前後がなくいつも(今)なのであり、一方被造物は、常に神に依存するのである。創造は神と万物の繋がりであって、神の方では時間と関係せず、万物の方ではすべて時間を含む。
同様に、神の全智と言うときも、(知り方)を人間における意味にとれば、神はむしろ無知であると言った方が正しい。神の智り方は物を存在させることであって、人間の知り方とはおよそ違う。そういう観念においてのみ、神は全智だと言えるのである。
神は絶對者であり、美そのものであり、善そのものであるとも言えるが、そう言うときも、我々は相対的なものしか知り得ないのに、その相対的な価値を絶對化しなければならない。それは我々の知っている(程度のある美)から(美)そのものへ飛ぶ事であり、観念の延長であるよりは、観念の超越なのである。
多くの人は、神の存在を認める。それを、天とか大自然とか呼んでいるが、人間の由来であり、目標である何かがある、とは思っている。その何かを神と名づけてもよい。しかし、その神が万物とは違ったところに見えるかどうかは
、重大な問題である。万物に内在すれば、それは、凡神論であり、万物外に実在すれば、それは唯神論になる。
換言すれば、神に向って、<汝>と言えるかどうかが、神の存在の問題よりも、なお決定的なのである。絶対者があると認めても、(我)と語り合える絶對的な<汝>があるかどうか。
それが我々に残された最終の問題であろう。☆
三姉弟の父親kは、ここまでネランさんの文章を読みあげると、押し黙った。そして、暫しの沈黙の後、次の様に、言葉を続けた。
○小蝶さんとドラえもんの会話は、(銀河Express)とか(どこでもドア)とか、不思議が在る。だが、この文章(フイルター)を通すと、不思議では無くなる。言い換えると、ネランさんの文章は、ドラえもんの☆どこでもドア☆かも知れない。
そうだよね、ドラえもん君!
それでは、堅い話は終わりにして、
子ども達も、夏休みに入った事だし、わらび平
、愛知県民の森、鳳来寺山へドライブしよう○
子供達から、歓声が、湧き上がった。