モリバランノスケ

洞爺の小蝶

日記

今、小蝶は、枯木エゾ松の枝上にいる。幹の太さは5m、樹高は30m、樹齢5百年以上には成るであろう。辺りの命達からは、蝦夷地と言われた古から現在まで、森の相談役として慕われてきた。樹肌はゴツゴツと苔むした、正に、山親爺である。

そこは、小高い丘の上であり、東西南北に視界が開け良く見渡せた。北側には、洞爺湖。その奥には、蝦夷富士と謳われる羊蹄山の雄姿が。北東には、ほぼ20年と言う周期で噴火を繰り返す有珠山。噴火口は、その都度あたらしく姿を現し、昭和新山の異名を。直近噴火は、2001年の事。噴煙が僅かに残り、立ち枯れた樹木が痛々しい。

又、南に目を転ずると、波静かな内浦湾の彼方に、キラキラと輝く、太平洋が広がっている。何の漁をしているのだろう。十数隻の漁船の姿が。その中を、大型の船が、進んでゆく。茨城県の大洗と、室蘭苫小牧に就航する、フェリーである。

小蝶が、クワオ/ヤマオと共に、周りの風景に魅了され、無言のまま、見入っている。そんな彼等に、枯木エゾ松が、語り掛けてきた。

エ (あまり、見掛けない顔だが?)
小 (あまりにも、見事な景色、見とれてしまい
  ました。ご挨拶が遅れて、申し訳ありませ
  ん。私は、旅をする蝶アサギマダラの小蝶
  と、申します。左はオオクワガタのクワオ
  、右はオニヤンマのヤマオです)
エ (アサギマダラと言えば、思い出がある。
  お蝶と言う者が、私の枝で羽を休めた。
  この地が気に入ったのか、暫く滞在したよ)

小蝶は、枯木エゾ松の言葉を聞き、驚きの表情を隠さない。一瞬押し黙ったが、昂ぶる気持を落ち着かせると、言葉を発した。

小 (そうなんですか!。お蝶は、私の母です。
  私の仕事.宿命は、旅をする事。けれども、
  深い意味が。母の足跡を、辿る事なんです)

小蝶は、こう言うと、暫し沈黙する。そして、
込み上げてくる想いを、抑えきれない、とでも言うかの様に、呟いている。

⊕母のお蝶は、こんな素敵な自然環境に包まれた所で、貴方様と出会い会話を交わすことが出来た。何と言う幸運に、恵まれたんだろう⊕

そして、(母は、こちらでは、どの様に過ごしていたのですか?)と、質問する。

枯木エゾ松は、暫し考えていたが、次の様に話し始めた。

⊕私達は、色々な事柄について、深く広く話し合った。又、お蝶は、時間を作り、内浦湾の渚、洞爺湖の畔、昭和新山のジオパーク、等に出掛けて行った。夜は、私の枝上で、過ごしていた。深く良質な睡眠が、取れていたようだ⊕

小蝶は、遠慮がちに、(貴方と母は、どの様な話をしていたのですか?)と、切り出した。

枯木エゾ松は、暫し考えていた。そして、(多岐に渡ったが、一番は、あの話かもしれない)と、前置きして、話し始めた。

⊕私は、ここの島を、五百年と言う、永い年月に渡り、眺めて来た。

その頃、ここには、北、東、南に、三っの王国があった。それぞれの国は、幾つもの集落から構成されていた。人々は、小高い丘の上、沼のほとり、河川の近く、海岸の近く、等などに集まり、平和に生活していた。

ここでは、他地域では見られない、幾つかの優れた特徴があった。

  1. 争いが無い
  2. 長(酋長、国王)は、世襲では無く互選
  3. 互助の精神が行き渡り、貧富の差が無い
  4. 出生にまつわる、身分の差は無く平等

何故、これが長年に渡り維持、実現したか。
この民族は、話し言語はあったが、文字を持たなかったからだ。それが、鍵かもしれない。

彼等は、太古の昔からの、ここ日本列島に住み
平穏に暮らしていた。しかし、ある時、大陸から異民族が押し寄せて来た。争い戦う習慣のない彼等は、次第に、列等の南と北に追い詰められていったのである。ここに住むのは、末裔⊕

枯木エゾ松は、ここ迄話し終えると、少し疲れたのか、暫し、押し黙った。

小蝶は、ここ迄の話を聞きながら、心のなかで
(私達昆虫類は、言語は在るけれど、文字を持たない。何処か似た所が在る?)と、呟いている。

枯木エゾ松は、気持を整え、再び話し始めた。

⊕今から、約225年前、先住民族にとって、更に
、悲惨な局面が押し寄せてきた。明治時代に入り、薩長土肥の北海道支配が始まったからだ。

理由も無く、今まで平和裏に暮らしてきた先祖伝来の土地田畑を奪われ、居留地に集団移住させられた。

しかし、これは特異な事ではない。これ迄人類が、民族間で争い事を起こす度に、繰り返されてきたひとこまである。例えば、太平洋戦争時
、アメリカに居住していた日系人が、苦難の末に蓄えた全財産を没収され、居留地に送られた事。又、ユダヤ人が強制連行されて、アウシュビッツに収容された事等など枚挙に暇がない⊕

枯木エゾ松は、ここで暫し押し黙る。そして、気持を整え、再び話し始めた。

⊕私の枝葉下に、墓標がある。一枚の板があるだけの、それは簡素な墓。墓碑銘は佐是最中。
先の幕末、薩長土肥に楯突いたとして、奥羽列藩同盟の中に在り、詰め腹を切らされた、伊達藩支藩の亘理藩。彼は、その一員である。

先祖代々の土地財産を襲われ、この地に強制移住させられる。そして、この地で辛酸を·········⊕

枯木エゾ松は、なれない土地での、彼等の壮絶な生活を、思い出したのか、思わず絶句する。

小蝶は、一語も聞き漏らさないと言うように、一心に耳を傾けていた。そして、遠慮がちに、言葉を添えた。

⊕先程も、申し上げました。私の旅は、仕事、宿命です。しかし、心の目的は、母の足跡を辿る事なんです。最初、母の生誕地、宮古島に行きました。そこから、沖縄読谷村、大分県日田
、瀬戸小豆島、岐阜県郡上、静岡県浜名、都西高松山、都下田浜山、房総小多喜、そして、生まれ故郷、南房総に戻り、羽を休めました。

それから、尾瀬、奥会津、会津に行きました。そして、会津若松の枯木桜さんの、勧めもあり、見聞を広める為、アメリカのワシントンD.C.に渡りました。その後、宮城県亘理、岩手八幡平を経由して、先程こちらに到着したのです。

話が、長くなり、申し訳御座いません。

2つ前に立ち寄ったは、宮城県亘理町の曹洞宗の寺院、萬松山大雄寺です。そこの境内に五百年息衝いている、古樹クスノキさんが居られました。その方から、佐是氏に纏わる、色々な話をお聞きしたのです。佐是最中は、末裔なんですね⊕

枯木エゾ松は、小蝶に対し、(なんという素晴らしい旅を経験したことか)と、言葉を添えて、次の様に話し始めた。

⊕勿論、最中は、反薩長土肥の立場だから、官界に位置する事は、許されない。しかし、その末席に座る機会はあったようだ。

私が思うに、彼には、事の道理が良く見えていた。その功績は、後の世に語り伝えられ、あの板一本の簡素な墓は、町の史跡として大事にされている⊕

枯木エゾ松は、こう言うと、小蝶に、(最中が行った、功績とは、一体何だと思いますか?)と、問うてきた。

小蝶は、心のなかで、(さあ、いったい何でしょう)と、思案している様子である。

枯木エゾ松は、その様な小蝶を、優しげに見つめながら返答した。

≪それはね。先住民の子供達の為に、小学校を建て就学の機会を作った事さ≫