ゲシュ崩ログ 491 食卓、春よ来い
ご飯を食べてと子供に言ったら「食べればいいんだろ食べれば!」とキレられて、夫にお茶を出したら無言で飲む。秋になったからススキの絵があしらわれた湯呑でお茶いれても、特になんにも気にいらないというか。気にしてないみたい。まぁ、そういうもんかな。男の人って。と、食卓で、なんだか私のしてる事は、なんにも家族に好かれないようだという気がして毎日食事つくる日々。
働けど働けど、我が暮らし楽にならざり…とか言った人が昔から居たらしいけれど、働いたらきちんと残業代金がでる場所で生きてる人は、完全に勝ち組じゃないかと私は思うんですよね。
ユーミンの曲
子供が、「子供の時、何してた?」って寝る前のお話タイムでよく聞くから、「そうだね~」と何かお話する時に、「そういえば、ちょうどあなたと同じ年の頃、ユーミンの曲を聞いてた。学校に登校する時にも歌いながら登校してた(信号機とかあるかないかの超田舎だった)
と言ったら、あっそ、って言われた。子供に言われて思い出した。そういえば、私は、小さい頃ユーミンの歌を耳にして「なんだこの曲はあああ!」と衝撃を受けて、ざわざわドキドキしていた。なんだなんだ…このざわざわは…とリピート再生していた。三十年位たった今、同じ歌聞いて、「やっぱりこの歌好き…」とリピート再生した。三十年たっても、私はちっともまったく本質が変わってないのかな。私って、成長って…してるのかな…????怖すぎて真実を知りたくない。
春よ来いがなぜ好きなのか
春よ来いっていう歌がなぜあんなに好きなのか…??なんだかさっぱりわからない。いまだにわからない。でもさすがに私はもう子供じゃないから、わからないではすまされない気がする。一生懸命自己分析してみた。
短調だから
あの曲はひょっとするとなんだかとっても絶望感を漂わせている悲しさ100パーセントのようでもある。悲しい歌だからなんだかブスで不幸な人生ハードモードライフの私には波長が合うのかもしれません。悲しい歌が…あ…なんだか自己分析してると思わぬ地雷でどんどん悲しくなってきた。
古語は剛腕
歌詞で、「なになによ」っていう、「よ」で止めるのが好きなんですよね。個人的に。なんだよ「よ」って。あと他にもあの春よ来いの「るる~」って…何…。もう、古語にどっぷり浸かってる高学歴の香りが学歴コンプの私には憧れさせてくれるんですよ。現代常用語と、古語が温故知新で後ろからも前からも音韻の快感が攻めてくる歌は、あの当時ユーミンの歌しかなかったんですね。百人一首の歌を聞いた時のような、あのなんとも言えない遠回りしてひねりまくった詩を読んだ時のような清潔で賢明な人の愛についての哲学に触れた時のような。そういうのがなんだかもう、小学生の頃の脳には大興奮だったんですよね。
声に出して歌いたいリズムと歌詞
英語の歌も歌で最高なんですけど、日本語の音韻って強いんですよね。でもその強さが、キッカリ文字数をあわせてくると、強い分だけそれが整列した時に他の追随を許さない音の心地よさになって、発音したくなるんですよね。なんでですかね。発音がしたい…と思わせる。それがゴシゴシチシチ…。と私は感じている。でも語呂あわせって難しい。そこで、のびのびした自由な心情を歌っている歌詞だけど、古語も用いたりして、より言葉を自由にしているので、つじつまあわせに無意味な歌詞をつくることなく、無駄が無い。つまり、全パートがサビ。みたいな雰囲気があるんですよね。ユーミンの歌って。全パートがリズミカルでキャッチーでテクニカルで高学歴で…しかも春の狂気をにじませた短調の旋律…もう、子供には強すぎる(笑)強すぎる程の美味しい味わいがつまりにつまっている歌だったから、そりゃ好きにもなるよと思いました。というのが、私の勝手な自分の自己分析です。
小さいころは、ユーミンの歌をエンドレスリピートして音楽きいてたんですが、私の子供はそこまで私みたいにユーミンにはまってエンドレスリピートしてる様子は無い。子供は、私と似てないんだな~と思う。それとも、もう少し未来でいつか何かに「なんだこれはあああ」ってなる日がくるのかな。なんだ!どうした!って何にハマったのか、どうハマったのか、お母さんに教えてくれる子であって欲しいなぁ。子供の為っていうか、私が単純に聞きたいから(笑)どんな事考えるんだろ?って。