まず『光る君へ 第44回』観て、それから・・・
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プレミア12キューバ戦とドラマ3つと大河2回の日曜日の夜、速記にて記録しなきゃ、寝る時間がなあいーーー。
あさってはいよいよ大雪です。
では「光る君へ 第44回」の考察です。
・頼通の駆け落ちして「都を出ます!」はかつての道長たちのセリフのオマージュ。
・彰子の話しぶり、言うことの数か月前からの変わり様。
役者力量か?演出家か?
・伊周=中関白家の名前がおん霊としてまで使われるのかー。しかし兄「道兼」系統は絶えてしまったのかな?
・今週最大の謎のセリフ
ロバートがもったいぶって言った【敦明 → 東宮】は、系統交代制からいって当然のこと。なぜ譲位と引き換えにするほどのことなのか?
・石野真子ついに最後の出演か?
・摂政ってホントに腹話術師か、ささやき女将でした。
・倫子は先週来、悟った雰囲気。
倫子の依頼で道長の伝記??幻の書?結局は書かなかった?
・9歳年上で入内か。かつての吉田羊もかなり年上だったんだっけ?
・(百舌彦!!きのうからの土曜日夜のNHKひとりMC番組獲得、おめでとう!!面白かった!!)
・三条院崩御後の「自ら申し出ての辞退」→「敦良東宮」の流れは真相怪し過ぎ。
・摂政+左大臣辞職でどうすんだあと思ったそばから、「太閤」!!これを秀吉が使ったんだあーーー。へえーー。
・娘三人の后フォーメーションは壮観。史上最強でしょう。
・さて「望月の~」が何度詠み上げられるか、指折り数えてました。なんと計「6回」でした!!
肝心のその反応ですが、まひろの顔アップが2回、しかしその表情の意味が読み取れな――い!!予告編のゴタゴタもありそうだし、うわっつらの賛否じゃない各人の評価が、今後の流れを決めるのでしょう。
予告編にて「松下洸平」を確認!!あったりー!!
しかし、道長の出家シーンも・・・。太閤は短期間?危篤でもないのに。
合戦だけの回ではなさそうだ。
かな?
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ぴのぴの
2024/11/28 20:00:39
> ユーミさん
いま、帰宅後精読いたしましたっ!!
体調不良明けにもかかわらず、遡ってのご解説、本当にどうもありがとうございました。
望月についての、通り一遍の学説にとどまらず、今ドラマ内でのご解釈まで頂き、感服です。
この回は史実的にもいろんな定石を押し切ったことが一気に出て気がしました。定説での黒道長と言われそうなことを突破していったような穿った印象の先々週だったかなあ。
さてさて最終回のラストのラストに思いを巡らす12月。
積雪の中、行ってみたい京都の聖地の絞り込みをしたいです。
ユーミ
2024/11/28 19:35:41
少し追加。
「望月の歌」は宴席で即興的に歌われたもので、歌集などに収録されているわけでもありません。
後世に残ったのは、藤原実資が自分の日記「小右記」に道長の宴席の様子と共に記していたからです。
あの実資ですので、もし歌が今迄言われてきたような道長の傲慢を表すようなものだったとしたら、確実に日記にそのことを書いて批判している筈だと思うのですが、実際はそのような批判は書かれていません。
実資も道長の歌に傲慢さを感じなかったからではないか、と思います。
ユーミ
2024/11/28 16:30:59
様な歌にする事は、季節の移ろいなどに対して鋭い感覚を持つ平安の高位貴族である道長のやる事としては些か矛盾を感じます。
山本氏は「この世をば」は「この夜」の掛詞であり、「この世をば我が世とぞ思う」とは、単に「今夜はいい夜だなぁ」という程度の意味しかない、と言っています。
また月は「后」や「盃」の比喩であり、「望月の欠けたることの無しと思えば」の「望月」は「一家三后」および宴席で皆で交わし飲んだ酒の「盃」を指すものとしています。
要するにこの歌は、「今夜は月が美しい良い夜だ。空の月は少し欠けているけれど、后となった娘たちは満月の様に欠けていない。皆で交わした盃に欠けたところが無い様に息子頼通を支えてやって欲しい」くらいの意味合いで、道長の傲慢どころか彼の家族愛を示すものと言えるかもしれません。
ドラマ的には、道長の歌はまひろへのラブコールにもなっていると思います。
「望月の歌」はもともと紫式部の「めずらしき 光さしそふ さかずきは もちながらこそ 千代もめぐらめ」という、敦成親王(後一条天皇)誕生時の、それを寿ぐ歌を参考にしていると言われてきました。
ドラマでは、まひろと道長が二人きりで月を見上げながら、親王誕生を寿いでまひろが歌ったものでした。その時道長は、「良い歌だ、覚えておこう」と言っていました。
そこからの今回の「望月の歌」です。これはまひろの歌への道長の返歌です。
まひろと道長にしか分からない、二人の絆あってこその歌と言える気がします。
更に、道長に月の光の雫が降り注ぐ様な演出。これは廃屋で二人が初めて結ばれた時に二人に降り注いでいた光と同じ(まぁ、同じ演出家なんですが)。
また、実資が「このような優美な歌に返歌は出来ません」と言い、白居易と元稹(げんしん)の故事にならって皆で唱和しよう、と言ったシーン。
白居易と元稹で思い出せるのは、第6話の道長の兄道隆が開催した漢詩会の事。
この時道長は、親友元稹の事を思って歌った白居易の漢詩を詠んでいますが、これは白居易の漢詩に託した彼のまひろへの恋心の吐露で、それはまひろと道長にしか分からない事でした。
「望月の歌」のシーンは、6話から張られた伏線の回収と言って良いと思います。
道長の歌を聞いたまひろが、思わず目を瞠って次いで潤ませたのは、これらのことが一気に胸に去来したから、と私は受け取りました。
ユーミ
2024/11/28 15:55:01
思えるからです。
東宮を辞退した敦明親王は、准太上天皇という待遇を得ます。
太上天皇とは譲位した天皇の事で、敦明親王は天皇に即位してはいないもののそれに準じる待遇を獲得したわけです。(源氏物語において、光源氏もこの准太上天皇になっています)
また、道長の娘・寛子(源明子との間の娘)を妃に迎え婿入りしています。その際、既に妻として迎えていた右大臣(道長辞任後は左大臣)藤原顕光の娘藤原延子(ふじわらののぶこ)を顧みる事無く捨てた形です。
延子は悲嘆のあまり健康を損ね、1019年に亡くなりました。
この様に敦明親王という人は、自身にとって不利益になるものをあっさり切り捨てられる計算高さを持っていたと個人的には思えるんですよね。
太閤とは、摂関を嫡男に譲った者の呼称です。
ドラマでは飛ばされてしまいましたが、道長は後一条天皇の摂政就任と同年の末に左大臣を辞任、摂政就任から一年程で嫡男頼通に摂政を譲りそのご太政大臣宣下を受けますが二カ月程度で辞任、その後太閤と称される様になりました。
このあたりを描写しようとするとかなり慌ただしくなるので、ドラマではスッパリ飛ばしたのでしょうが、少々分かりにくいですね。尤も、描写しても立て続けの就任と辞任で分かりにくいと思いますが。
後の時代の豊臣秀吉も、関白太政大臣となりその後甥の秀次に関白を譲ったので慣例によって太閤と称される様になった訳です。
一家三后は史上初、未曾有の事、と実資が小右記に記しています。
道長の末娘藤原嬉子(ふじわらのよしこ)は、敦明親王辞退後に東宮になった敦良親王(あつながしんのう)の妃になり後の後冷泉天皇を産むものの赤斑瘡(あかもがさ/現在の麻疹)で産後二日で亡くなってしまいますが、もしそれがなければ一家四后が実現したかもしれません。
さて、有名な「望月の歌」。
長らく道長の傲慢さを象徴する歌とされてきました。中高の歴史授業でもその様に教わって来ましたし、現代でもその説が無くなった訳ではありません。
しかし、最近は別の説が有力になりつつあるように思えます。
その説を唱えられているのは、京都先端科学大学の教授山本淳子氏です。
そもそも歌が歌われた宴の日の月齢は十六夜で満月ではありませんでした。1000年前の月齢であっても、現代の天文学は余裕で割り出せます。
既に欠け始めた十六夜の月を、自身の絶頂の象徴とする
ユーミ
2024/11/28 15:02:17
石野真子さんが演じている藤原穆子は、曾孫である後一条天皇の即位から間もなく亡くなります。当時としては驚異の86歳と言う長寿でした。
摂政が腹話術師…面白い言い回し。
政務をとれない幼帝、あるいは病気で政務をとれない天皇の代わりに政務を任されるのが摂政という存在。
そもそも摂関政治自体、天皇の権能を一時的にでも自分のものにしたい貴族の欲求から始まったと言っても良い制度ですし。
倫子が依頼した道長の栄華を記した物語は、栄花物語として形になります。
ドラマでは倫子がまひろに依頼していましたが、栄花物語の作者は赤染衛門もしくはその夫の大江匡衡(匡衡死後に妻の赤染衛門が引き継いだともされます)です。
ドラマでは既に大江匡衡は亡くなっていますので、赤染衛門が作者になりますね。
栄花物語は道長をかなり持ち上げた内容となっているので、歴史書としての信憑性がどこまであるかは不明ですが、全部が作り話という訳でも無いと個人的には思っております。
9歳下の後一条天皇に入内する事になった藤原威子(ふじわらのたけこ)は、ドラマではかなり嫌がっていましたね。年齢差を考えると無理ないな、とは思います。
とはいえ、入内後の威子と後一条天皇との仲はきわめて睦まじく、後一条天皇は威子の他に后を持ちませんでした。
二人の間に残念ながら皇子は生まれませんでしたが、夫からただ一人の女性として愛されたのは、威子にとって幸せだったのでは? と思います。
ちなみに、円融帝に入内した詮子は、円融帝より2歳ほど年下でした。
三条院崩御後、敦明親王が自ら東宮辞退を申し出た件は、道長からの無言の圧力に屈した説がありますが、個人的には圧力は勿論否定できないですが敦明親王自身の判断の方が大きかったのではないか、と思っています。
敦明親王の父故三条院は、先々帝である一条帝の4歳年上で即位まで26年もの年月を東宮として過ごしました。翻って自身は、現帝である後一条帝より14歳年上の22歳。
道長からの圧力云々以前に、年齢の問題で敦明親王は自らが天皇に即位する未来を思い描けなかったのではないか、と思えます。
仮に父と同じ年数を東宮として過ごすとしたら、即位出来るのは単純計算で48歳。即位の前に自分の命が尽きる可能性を考えたとしても不思議はない気がします。
この様に考えるのは、敦明親王が結構現金なリアリストではないか、と
ユーミ
2024/11/28 14:13:31
こんにちは^^
頼通の「都を出ます」発言は、道長がかつてまひろに「海が見える遠い地で二人で暮らそう」と駆け落ちを持ちかけた時と同じですので、道長も何も言えなかった様ですね。
道長自身、三条天皇の内親王を迎える事に乗り気ではないので(史実でも多分同じかと)、息子を嗜める言葉が無かったのでしょう。
彰子の話しぶりの違いは、まぁ彰子の成長ですね。
ドラマが数カ月程で描いている事も、実際は十年以上の年月が経過している訳で。
その間、様々な経験をして成長した姿が現在の彰子です。もう入内が決まったばかりの12歳の少女ではありません。
それを演じ分けている役者さんは勿論、それらを踏まえた脚本・演出がミックスされた結果でしょう。
伊周の怨霊云々は、まぁ彼がドラマ内で実際にやった事を考えればまぁ当然か、と。
頼通が重病に伏した、というのは一応史実です。それが本当の病気だったのか、ドラマの様な仮病だったのかは分かりません。
病気の原因は、伊周の怨霊ではなく、具平親王(頼通の嫡妻隆姫女王の父親)の霊が娘を案じて憑りついた、と栄花物語(?)には書かれている様です。
敦明親王を東宮に立てる事と譲位が引き換え条件になるのか、という点についてですが。
両統迭立(冷泉系と円融系)の観点では確かに敦成親王の次は敦明親王となるのが道理ではありますが、やはり生母である藤原娍子(ふじわらのすけこ)が皇后として立后されているとはいえ貴族たちの支持を受けていない(権力者である道長への忖度だけではなく、父親が大納言にすぎず、しかも亡くなって久しいので後ろ盾がほぼ皆無の娍子は公卿のみならず受領階級の中級貴族からも軽んじられていました)点から、敦明親王の基盤は非常に脆弱でした。
加えて敦明親王個人の為人(ひととなり)もあまり褒められたものではなく、親王なりの理由があった様ですが、受領階級の貴族を往来で拉致し自分の家人に暴行させたりしています。
父親である三条天皇が、自らの譲位の条件にしなければ東宮として立つ事が難しかったのかもしれません。
交換条件で東宮となれたものの、春宮坊(東宮坊とも言いますが、東宮の為の機関)の官人のなり手がいなかった、とされるくらいです。