私の奇跡
とても変わった体質の人というのは稀に存在する。
なんでも夜には全く食べずに水分のみで天寿を全うできた人間の記録すらあるというし、それと比べれば私の病なんて取るに足らないものだ。病とすら言えないかも。
私は子供の頃から語義を誤解している単語がいくつかあった。
私は悲しみという単語を怒りという意味だと認識していた。
祈りという言葉を予感という意味だと認識していた。
病気という言葉を苦しみという意味だと誤解していた。......そういうものが何百とあり枚挙にいとまがない。要は私は他の人の脳と全く違う辞書を搭載していたのだ。
「ひどいでしょ。私お母さんにそう言われてすごく悲しかった」
「テストの日は休校になるって祈ってるよ」
そしてそれは生活になんら支障がなかったしだからこそそれが発見されたのは高校の頃を待たねばならない。
高校まで何ら問題がなかった私なのにターン制のように回ってくるいじめで不登校になって、少々神経質が過ぎる親の命令で病院で検査を受けさせられたのだ。木をかけだのこの図は何に見えるかだの正直ふざけているとしか思えない検査のあげく、1時間くらいかけて知能を測られて私がかなり多くの言葉の意味を違って捉えていることがわかったのだ。
でもお気づきだろうか。これらの言葉を取り違えていても何ら日常生活にも国語のテストにすら支障はなかった。
私が今これを説明できるのは、病院でのトレーニングのおかげだった。
私は正しい言語辞書を搭載したあたりから、この世の違和感を感じるようになっている。私の言葉の使い方が是正されても全ては何も変化しなかったことに私は絶望したのかもしれない。人の感情に信頼を置けなくなったかもしれない。そして私の紡いできた言語がゼロスになるということは私の過去の思想がゼロベースになるということでそれは私の時間が丸ごと剥奪されるようになったということだ。私は怒りから、一つしかない解決策に思い至る。私は新しい辞書を搭載する。そして置きている時間はずっと新しい辞書による文章を書きつづける。
そうしたことを書き綴った文章をインターネット上にアップしたら最初に付いたコメントが「でも誰の人生だってだいたいそうしたものだ」ということだった。
私は突然言語を巨大な神のように思った。そして私はそれを前にして何も意味がない物体となった気がした...いや物体なら質量も空間も示するわけでこの喩えが適切でない。
ところで私がどんな辞書で話しているかは読み手にはわかるのだろうか。
しかし私はそれにこだわるには最初の17年でそれがナンセンスであることを知りすぎてしまったのだ。
合掌