納めの水天宮
ニコットおみくじ(2024-12-05の運勢)
こんにちは!九州や中国は一部で雨。
四国から関東の太平洋側は概ね晴れる。
北陸から北海道は雨や雪。
沖縄は曇りのち晴れ。
肌寒い一日になりそう。
【納めの水天宮】 おさめのすいてんぐう
☆12月5日は納めの水天宮と呼ばれる、その年最後の水天宮の縁日です。
江戸の藩邸内の水天宮に参拝出来る納めの日だったことから、
納めの水天宮と呼ばれるように、来る1年の多幸を祈願します。
<概要>
〇納めの水天宮
その年最後の水天宮の縁日で、水天宮は船で働く人の守護神です。
古いお札を納め、一年の無事を感謝する日でもあります。
水天宮の発祥は九州の久留米(くるめ)藩です。
9代目久留米藩主の有馬頼徳(よりのり)公が、
1818年、自家で祀っていた水天宮を三田赤羽の上屋敷に分祀したのが、
東京の水天宮の始まりです。
《有馬頼徳》公
寛政9年(1797年)6月22日、
久留米藩嫡子である有馬頼瑞(よりなお)公の長男として生まれます。
*有馬頼瑞公・・・第8代藩主・頼貴(よりたか)公の三男
頼瑞公は頼貴公の世子でありましたが、
早世した為、頼徳公が祖父頼貴公から世子を指名され、
文化7年(1810年)には従四位下・侍従・上総介に、
叙位(じょい)・任官されました。
文化9年(1812年)に祖父が死去した為、
家督を継ぎ、玄蕃頭(げんばがしら)に遷任(せんにん)されます。
*玄蕃頭・・・従五位相当 唐名:崇玄署令、典客部
しかし・・・
財政難の為、就任早々の幕府による関東河川の手伝い要請で、
領民に臨時税1192貫を課しました。
文化13年(1816年)には経費を3割縮減した、
緊縮財政や家中からの米献納を命じたりして、財政改革に取り組みました。
一方で、「月船」「水鴎」といった号を持ち、自らの趣味に没頭しました。
文政2年(1819年)から、久留米城内に柳原御鷹場を造り始めます。
さらに・・・
能楽を何度も開く等をして、財政をさらに悪化させました。
この為・・・
文政6年(1823年)には江戸からの帰国中に旅費不足に陥り、
急遽国許の大庄屋中から5000両を送金させる事態に陥ります。
文政7年(1824年)から、
役所整理等の経費削減による財政改革を開始しましたが、
文政7年から文政11年(1828年)まで、
毎年洪水又は不作に見舞われるという不運も重なりました。
しかも、こうした中で文政8年(1825年)に、
柳原の庭園が完成した際には「柳原八景詩歌」を編纂させています。
文政10年(1827年)からは御用金を取り立て、
文政11年には上米の増額と万事3か年の省略を命ずる等をしましたが、
借金はさらに膨れ上がりました。
天保2年(1831年)には人別銀17446両を徴収しました。
こうした過酷な取り立てをきっかけに、
天保3年(1832年)からは亀王組による国中を巻き込む、
一揆が起こる有様でしたが、
1832年には城内に焼物窯を開き、柳原焼と称して、写し物の制作をさせる等、
趣味への出費が減ることはありませんでした。
天保2年(1831年)に左少将に遷任されます。
晩年の天保9年(1838年)には大洪水で大被害を受けたにもかかわらず、
諸国巡検使の接待に1万両を費やしまして、
さらなる財政悪化の為に家臣へ増上米を命じました。
天保10年(1839年)8月には江戸城西ノ丸の普請を命じられまして、
10月にはとうとう柳原鷹場を取り壊しました。
天保15年(1844年)4月3日に江戸で死去しました。
享年48歳です。
跡を四男の頼永公が継がれました。
@水天宮の御祭神
水天宮には、四柱の神様がお祀りされています。
★天御中主大神(あめのみなかぬしのおおかみ)
誰もその形を知らない宇宙の始まりに、
高天原(たかまがはら)と呼ばれる天の最も高い所に現れた神様です。
◇高天原
「古事記」に含まれる日本神話及び祝詞(のりと)において、
天照大御神(あまてらすおおみかみ)を主宰神とした、
天津神が住んでいるとされた場所です。
日本の神々の祖先神でありまして、
安産、子授け等により広大無辺なご神徳を表されます。
★安徳(あんとく)天皇
高倉天皇と建礼門院様の皇子としてお生まれになられまして、
3歳にして第81代天皇に即位されました。
寿永4年(1185年)の8歳の砌(さい)、
祖母の二位の尼様に抱かれ、壇ノ浦にその身を海中に投げられました。
☆建礼門院(けんれいもんいん)様
父清盛公、母時子様(二位の尼)の間にお生まれになりまして、
18歳で高倉天皇の中宮となられました。
建礼門院とは安徳天皇を生んでからの院号でありまして、
壇ノ浦の合戦後、余生は平家一門の菩提を弔いました。
★二位の尼(にいのあま)様
平清盛公の正室で、御名を時子様と申されます。
清盛公の死後、出家しまして、
従二位に叙せられましたので、二位の尼と呼ばれます。
孫の安徳天皇と京から西に苦れまして、壇ノ浦にて入水されました。
@水天宮の由来
☆天御中主大神のご神徳を受けた有馬家
赤松家を祖とする摂津有馬家は、
応仁の乱の引き金となった嘉吉元年(1441年)の嘉吉の乱の後に、
有馬の郷(現:神戸市北区)に落ち延びて、隠れ住みます。
その土地から性を取りまして、有馬と名乗りました。
後年、有馬家は太閤秀吉公に見出されまして、中央に戻してもらいます。
その幸運を授けて下さった有間(有馬)神社の祭神である、
天御中主大神のご神徳を代々忘れぬよう、
有間神社の社紋である「三つ巴」を有馬家の家紋としました。
現在でも当主にのみ、三つ巴の紋を付けることが許されています。
★久留米藩へ入封、水天宮社殿を造営
元和6年(1620年)に大名家としての有馬家は、
久留米藩二十一万石を拝領しました。
*有馬家・・・有馬豊氏(とようじ)公
第2代藩主の有馬忠頼(ただより)公は、
当時「尼御前大明神」と尊称されていた水天宮さんに対しまして、
城下の筑後川に臨む広大な土地を寄進しまして社殿を造営しました。
敬神の念は代々の当主に受け継がれまして、
文政元年(1818年)に第9代藩主の有馬頼徳公は、
参勤交代の折に江戸で水天宮を親しくお参り出来るように、
芝赤羽根橋の上屋敷内へ国元久留米より御分霊を勧請致しました。
<水天宮 さんの住所>
・水天宮 さん:福岡県久留米市瀬下町265-1
・東京の水天宮 さん:東京都中央区日本橋蛎殻町2-4-1
問題 第9代有馬頼公が久留米から芝赤羽橋の上屋敷へ御分霊を勧請しました。
〇〇に入る言葉をよろしくお願いします。
文政元年、久留米藩有馬家上屋敷に祀られていた水天宮 さんは、
人々の信仰が篤く、堀越しにお賽銭を投げる人が後を絶ちませんでした。
時の藩主は毎年5日に限り、お屋敷の門を開き、
人々のお参りを許しました。
そのことから有馬家と「〇〇深い」ことを掛けて、
「〇〇有馬の水天宮」という洒落が江戸っ子の流行語となりました。
1、興味
2、情け
3、思慮
ヒント・・・〇〇〇の定義
・他人に対する心づかい、哀れみや思いやりの感情
・風流の心、趣味を解する心
お分かりの方は数字もしくは〇〇に入る言葉をよろしくお願いします。
gen_rin
2024/12/06 17:34:30
こんばんは!木曜日のお忙しいなか、コメントお答えをありがとうございます。
スズラン☆さん、どうもお疲れ様です。
あはは、そうですね、なかなか言いにくいですね。
その藩主を尊敬してですから、確かに面白いですね。
偉大な方ですが。
問題ですが、2番の情けが正解です。
素晴らしいですね、おめでとうございます(祝)
そうですか、あの赤色は強いから取れにくいですものね。
おお~、そうですか。
のんびりは大事ですよね。
休むのも仕事です。
現在、風邪が流行っていますので、免疫を下げると厄介なことになりますから、
睡眠や休憩をとって、そして、栄養価があるものを食すのが良いですね。
はい、どうもありがとうございます。
どうか日頃の疲労をのんびりして、おとりになれることを心よりです。
スズラン☆
2024/12/06 15:33:22
天御中主大神という最大神様の発症元は、
久留米の有馬頼徳で、かなりいい加減だった藩主なのに分祀して、
今も継続されているのが面白いと思いました。
答え 2
ビートを買う理由を止めたのは、
私も同じ理由でした(笑)
今週末は実家に行かないで月曜からになったのでのんびりしています。
お互い良い週末になりますように。