悠遠の夢語

Lycoris

私を見てくれている方を、私も見ているよ!

幸せについてのお話。(私の語尾の「!」の話も!)

日記

人は幸せになる為に生きると言っても過言ではないと思う。
他人の不幸せを願う事があっても、自分の不幸せを願う人は後悔を背負った咎人くらいだと思う。
それくらい、不幸せを自ら選択するのはイレギュラーな事であり、幸せになりたいと思うのが自然なのだと思う。
ただ人それぞれ、当然何が幸せなのかは違う。

だからこの記事では幸せのしきい値、基準値の話をしようと思う。


1.
私が過去に触れ合った人の中に、マクドナルドのハンバーガーって美味しくないよなって言う人がいた。
その人は、マクドナルドが嫌いなのかなと最初は思っていたが触れ合っていくうちに、この人はジャンクフードが嫌い。
そしてある程度の値が張る食べ物でないと満足が出来ない人だった。

2.
私はたこ焼きが大好きだ。
別に、たこが入って無くても私はそれがたこ焼きと言うのかどうかはわからないけれど、それもまた好き。
でもきっと、たこが入っていないとそれは満足出来ないと思う人も多いと思う。

3. 
私は自分の命よりもお金の方が大事で、友人の命はお金よりも大事だと思って生きている。
でも私は暮らしていけるだけのお金が有れば良い。
たまに少し趣味に使えるお金が有れば良い。
必要以上のお金はいらない。
でも何故か、使いきれるかどうかわからない程の富を望む人を多く見てきた。


私はハンバーガーが美味しいと感じられる。
私はたこが入ってないたこ焼きでも満足が出来る。
私は必要以上の富は望まない。

ただ勿論、この真逆の人がいると思う。
その人が不幸だとは思わないし、きっと志しが高い人なのだろうなと思う。
それでも、「幸せ」だと感じる「基準値」や「しきい値」は低ければ低いほど、幸福を得やすい事。

だから私は、妥協した人生で幸福を感じる事の出来るしきい値で生きられている事を最大の幸福だと思っている。

補足.
なんなら鼻をかんで鼻水を出し切った時ですら幸せを感じる。
後マクドナルドの昔の値段を見ると、今のハンバーガー高すぎて泣きそうになる。


語尾の「!」のお話。

私が人の記事にコメントをする時は語尾に「!」が多くなる。
それは何故かと言うと、私はそのまま文字を紡いでしまったら一見「無愛想」に見られてしまうのではないか。
と言う思想の元、何かつけようと思って「!」をつけているだけで、特に主張したいから「!」をつけているだけでテンションが高いわけでもない。
ただ人に無愛想だと思われないよう、そう思って何かつけようと思ったのが習慣化しただけ。


#日記広場:日記

  • Lycoris

    Lycoris

    2025/10/14 18:15:07

    > amilitaさん
    面白いと思って頂けて良かったです…!
    何を以ってして幸せだと言うのか、その定義はきっと個人の心の中にあるのかな、って思っています。
    なので私にとっての幸せが他者の幸せとは限らない、と言う結論に至ったのが今の私です。

    幸せの閾値は低ければ低いほど、良いと本当に思います。
    あるもので満足が出来る、その心さえ持てれば…、とは思いつつも欲は捨てきれないものですね…。

    人が作ってくれた料理、その人が親しい人であればそれは高級レストランを軽く凌駕する様な食事になると思っています。
    後は何処かで聴いた話なのですが、「どんなに金欠でもカツ丼食えるくらいの金は持っておけ」って言葉が私の心にわりと残ってます。

    鼻が通っている事の幸せ、酸素をスムーズに取り入れることの出来る幸福は凄いですよね…!

    コップ半分の水、プラグマティズムですね…!
    本居宣長氏はかつての偉人であった事は知っていましたが、この様な概念を抱いていたのですね…。
    「もののあはれ」2000円ほどで買えそうなので読んでみようと思います!
    ちなみに私の哲学の原点は、松尾芭蕉氏の「おくのほそ道」にあります。

  • amilita

    amilita

    2025/10/14 18:01:35

    面白い考察ですね。
    「人は幸せになるために生きる」本当にその通りだと思います。
    何をもってして「幸せ」と定義するのは難しそうですが。

    幸せの閾値が低い方が心の持ちようが豊かだと、私も思います。

    あいにくマクドナルドのハンバーガーはもうしばらく食べていませんが、人が作ってくれたものを食べられること自体が幸せだし、さらに言えば、食べたいものを選んでそれがすぐ手に入ることが幸せです。

    通年アレルギー性鼻炎があるので、鼻が通っていることの幸せも共感します。

    幸不幸はその人しかわからないことですが、よく比喩されるコップ半分の水の話と一緒だなと思いました。
    本居宣長の「もののあはれ」に通じる概念のようにも感じました。
    哲学がお好きなら、面白いと思います。

  • Lycoris

    Lycoris

    2025/10/13 01:19:40

    > ナナさん
    本当に、人それぞれですね…。

    私はお金が少なくとも親しい人と一緒に楽しい時間を過ごせたらそれ以上はないかなって思っています。

    私は幸せを享受してばかりの人生ですが、いつの日か与えられる側になれたら、と自分の幸福の為にも思います…!

  • ナナ

    ナナ

    2025/10/12 21:57:12

    何が幸せか は人それぞれですね

    お金は少なくても
    親しい人と大切な時間を過ごしている人。
    お金はたくさんあっても心の貧しい人も…


    幸せは享受するよりも
    与える幸せの方が大きいと
    聞いたことがあります


  • Lycoris

    Lycoris

    2025/10/12 17:55:54

    > Ange。さん
    身に染みるだなんて恐縮です…!

    私もかつては幸せが空どころか宇宙の外にあるくらい、高くにありました!
    ただ色々な挫折を経験していく中で、心が折れてしまって上を目指す事を諦めてしまったが故に至った思想なのです…!
    なので空ほどに高い幸せを求めるAnge様はまだ、自分の人生を諦めていないと思っています…!

    ほ、本場っぽい小籠包羨ましい…っ!
    でも「空ほどに高い位置」の幸せを求めるAnge様が、失礼ながら混んでいたお店がすいていたと言う「些細」とも言える事で幸せを感じたのは、きっとAnge様もまた小さな幸せを見つけられる事の出来る方なのだと思います。

    私も食は人生のエンドコンテンツだと思っています…!

    追伸: 私はお店に30分並んだ後に「なんか、いいや」って思って並ぶのをやめてチェーン店に行くことすらある。

  • Ange。

    Ange。

    2025/10/12 17:34:20

    すごく。
    とっても。
    身に沁みるお話です。。

    わたしは、しあわせ、を感じる基準がそらほどに高い位置に据えてるのだと感じました。

    そんじょそこらのことで幸せを感じられない、と。

    でも、いつも激混みの、だいすきな小籠包のお店がすいてて、いつものようにアッツアツで、にこやかな中国籍の姐さまが提供してくれた小籠包から肉汁がぢゅゎわ~と口いっぱいに広がる瞬間、大いなるしあわせを感じました。

    つまり、わたしにとってのしあわせは、食に関すること多々、って感じです♡

  • Lycoris

    Lycoris

    2025/10/12 17:27:05

    > takaさん
    鼻をかむのと耳かきするの大好きなんです…!w
    幸せを無意識で感じられるのは特別大きな物で、小さい血合わせはきっと意識しないと見えないのかなって思ったりします。
    何か病を患った時とか本当にそう思いますよね…!
    し、汁物だけって拷問だ…っ!
    実は私、大好物がおかゆでして塩と味の素でお米を是非煮込んで見てほしいです…!
    お好みで卵も!
    なんでもないようなものが美味しく感じる、「当たり前」を他者から取り上げられて初めて気付ける感覚なのかなって思います。
    「生かされている」本当に有り難い…っ!
    人間一人では何も出来ないなって思ってしまいます。

  • taka

    taka

    2025/10/12 17:23:13

    「鼻をかんで鼻水を出し切った時ですら幸せを感じる」←ww
    幸せって案外気が付かないもんですよね。目の前にある大事な物。
    普通に生きられて美味しい物食べられて。
    医者から日曜の朝まで汁物だけしかダメで土曜丸1日飢えてました。
    お昼に卵かゆのおいしさと言ったら。普通に食べられる幸せ。
    生かされてることの有難さ。つくずく感じました。