仮想劇場『部屋と血圧とワタシ』
小さなキッチンに8畳の和室、かろうじて一人分の洗濯物が干せるベランダ。浴室乾燥機付きのユニットバスにTOTOウォシュレット便座。質素なのか豪華なのか。
目の前に大きな公園があるから日中は少し騒々しい。けど夜は夜でこの寒空の下、健気にもべったりと重なり合う熱愛カップルが湧いてしまい、これまたちょっとだけ騒がしい。
時折大型の犬が吠える。それがまた余計に僕の血圧をあげてしまう。
まあ今の僕の部屋はたぶんこんな感じで、朝からオートミールのパンケーキを焼き、昼を過ぎるまではブラックコーヒーとココアで気を紛らわせている。
肝心の肉体のほうはというと幾分は軽くなった。体重が落ちたからってのもあるけどやはりあのやかましかった頭痛が落ち着いてくれたことが大きい。精神的に幾分かの余裕も出てきた。
夜になると決まって繁華街を練り歩く。ただただ練り歩く。新調したスウェットにじんわりと僕の汗をしみこませながら。とりあえずまっすぐに2㎞、そこから気まぐれにもう2㎞。繁華街を遠く離れ海岸線を横目に潮風に身を打たせている。誰のせいでもない。自分自身で自分に与える小さな戒めのようなものだ。帰るころには心身ともに凍えているがそれがまたいい。
玄関横のひっかけにスウェットとジャージを裏向きに掛ける。男の匂いが壁に沁みついている。
設定したタイマー通りに風呂が沸いている。逆に言えばこの時間に合わせて戻る様に務めている。若さを失くした以上、何事も程度を考えて動かなければと考えている。
入浴剤の芳香に埋もれるように顎先を湯面まで落とし込む。窓のずっとずっと向こう、囁きあうカップルたちの心情を少しだけ分けてもらう。まるっきり無関係の他人だからこそわかりやすい。液晶画面の中のインフルエンサーと変わらない距離感で世間様のことを少しだけ考えてみている。
「お前はもうすでに生き損なっているんだよ」
その言葉に心をやられてようやく8年が過ぎた。なぜ僕は他人様並みの生き方を望んでいたのだろうか。もし自分の歩幅だけを頼りに歩いていたら誰とぶつかり合うこともなかった。
今となっては大して痛むほどの事柄でもない。血圧と同じで気の持ちようでどうにでもなることだ。仮にどうにもならなかったにしても僕は僕でしかないんだし構わない。だから僕は薬にさえ嫌われてしまうんだろう。
そして小さなキッチンに8畳のリビング。変わらずにキミの幸せを想うこの夕暮れ。部屋と血圧とワタシ —。