恵方巻きについて①
「恵方巻」
恵方巻、恵方巻き(えほうまき)とは、節分に恵方を向いて食べると運を呼び込むとされる「切り分けられていない太巻き寿司のこと」。一種の縁起物である。
発祥は関西圏において、恵方に向かって太巻き寿司(「丸かぶり」「丸かぶり寿司」とも呼ばれる)を無言で頬張りながら食べると願いが叶う独自の食文化・風習である。
家庭料理として大阪では1910年代から普及していたが、1980-1990年代にスーパーやコンビニチェーンが日本全国に展開を行い、2010年代以降に広く関西圏外にも普及した。
「概要」
太巻き寿司を縁起物として食べる風習は、商都大阪発祥の風習と言われているが、その起源の定説は未だ存在せず不明な点が少なくない。1998年頃から全国へ広がり、2000年代以降に急速に広まったと言われるが、それ以前に「恵方巻」と呼ばれていたという文献類、新聞・雑誌記載などは見つかっていない。
そもそも、現代日本で用いられている新暦(太陽暦)へ改暦する前の旧暦(太陰太陽暦)の1月(睦月)は新暦の2月頃に当たり、睦月は春を意味していた。つまり、「正月」前日の「大晦日」が即ち「立春」前日の「節分」とされ、「年越し」であった。明治時代の辞書では、年越しは「大晦日と節分」とされている。
節分の「追儺」(豆まきと鬼)は元々宮中大晦日の行事であった。歳徳神のいる明け方・「恵方」へ歳徳棚の向きをあわせ餅を飾り年神を迎える正月の習慣は、今も平安京内裏南にある神泉苑で行われる大晦日の歳徳神恵方廻し(方違え式)にて観られ、吉田神社の節分・追儺式では今も節分の年越しそばが食されている。
現在は「節分の夜に、恵方に向かって願い事を思い浮かべながら丸かじり(丸かぶり)し、言葉を発せずに最後まで食べきると願い事がかなう」とされる。「目を閉じて食べる」、あるいは「笑いながら食べる」という人もおり、これは様々である。また太巻きではなく「中細巻」や「手巻き寿司」を食べる人もいる。近畿地方の表現である「丸かぶり」という言葉から、元々は商売繁盛や家内安全を願うものではなかった、との考察もある。民俗学において、フォークロリズムに関する研究題目として扱われる事がある。その他には「幸運巻寿司」「恵方寿司」「招福巻」などとも呼ぶ。
『読売新聞』によると、2025年には節分で豆まきよりも恵方巻のが主流になってきている。アンケートによると、「節分の過ごし方」を尋ねた質問(複数回答可)では、「恵方巻を食べる」(75.7%)が最多、2位が「豆まきをする」(38.8%)、3位は「年の数だけ豆を食べる」(36.0%)となった。恵方巻を食べる理由については、「縁起物だから」(74.1%)と「毎年恒例だから」(64.2%)という回答が多く、福を招く節分の行事食として定着している。背景には、豆まきの騒音や損壊などによる近所トラブル回避、誤嚥や窒息死死亡事故もある豆の喉の詰まらせ問題がある。ほかにも主婦からは恵方巻が普及してくれたおかげで、節分の日は恵方巻+少しで良いので献立メニューを考えるのが楽との意見がある。
「具材」
太巻きには7種類の具材を使うとされる。その数は商売繁盛や無病息災を願って七福神に因んだもので、福を巻き込むと意味付けされる。別の解釈もあり、太巻きを逃げた鬼が忘れていった金棒(鬼の金棒)に見立てて、鬼退治と捉える説もある。具材は特定の7種の素材が決まっているわけではないが、代表例として以下が用いられる(なお、7種類ではない場合もある)。
・高野豆腐
・かんぴょう
・キュウリ(レタス・かいわれ)
・伊達巻(だし巻・厚焼き卵)
・ウナギ(アナゴ)
・桜でんぶ(おぼろ)
・シイタケ煮
また、大正時代から昭和時代初期には漬物が度々挙げられた[9]。他にも焼き紅鮭、かまぼこ(カニ風味かまぼこ)、しそ(大葉)、三つ葉(ほうれん草)、しょうが、菜の花、ニンジンなどが使われることがある。
「海鮮恵方巻」
2000年代以降ではサーモン、イクラ、イカ、エビ、まぐろ(ネギトロ・漬けマグロ)などを使い「海鮮恵方巻」と称して店頭で売られていることもある(後述)。具材の種類数でも7種にこだわらず、2種や5種などと少なくしたり、11種・12種・15種など多くする場合もある
「歴史」
江戸東京博物館の学芸員である沓沢博行は、恵方巻の起源説を以下のように整理している。
「1.幕末から明治時代初頭に、大阪・船場で商売繁盛、無病息災、家内円満を願ったのが始まりで、一説には若い女性の好きな人と一緒になりたいという願望から広く普及したとする説(すし組合のチラシより)。
2.船場の色街で女性が階段の中段に立って、丸かじりして願い事をしたらかなったという故事にちなむとする説(スーパーU社のチラシより)。
3.節分のころは新しい香の物が漬かる時期で、江戸時代中期、香の物入りの巻き寿司を切らずに丸のまま恵方を向いて食べ、縁起をかついだ。これが、やがて節分に恵方を向いて、巻きずしを丸かぶりすると、その年の福がさずかるという招福の習わしになったとする説(スーパーD社のチラシより)。
4.船場の旦那衆が節分の日に、遊女に巻きずしを丸かぶりさせて、お大尽遊びをしていたことに端を発するという説(当時の大阪海苔問屋協同組合事務局・藤森秀夫からの聞き取り)。
5.戦国時代の武将(堀尾吉晴といわれる) が、節分の日に丸かぶりして出陣したら戦に勝ったので、以後瑞祥としたことに端を発するとする説(藤森秀夫からの聞き取り)。
上記の説は岩崎竹彦が、スーパーなどのチラシに書かれた説と、彼の調査が行われた1990年当時、大阪海苔問屋協同組合の事務局長の職に就いていた藤森秀夫からの聞き取りで得られた由来とをまとめたものである。」
なお、古来商家が集中する大坂の中心業務地区である問屋街であった船場に色街が存在したという歴史はない。
沓沢は、篠田統の『すしの本』(1970年)[42][9]を参照して、大阪市上本町の鮨店「美登利」の店主の「大正初めには存在していた」という証言が、「辿れる『確からしい』記録の中ではもっとも古い時期を示すものとなる」とした(「美登利」は1940年に後述の大阪鮨商組合の広告チラシを配布している)
「節分と巻きずし 四十四年の節分の日、日本風俗史学会食物史分科会の月次例会の席上、大阪市立博物館の平山敏治郎館長から「ここへ来る途中、阿部野橋のすし屋の表に本日巻きずし有りという広告を見たが、何のことかしら」という質問があり。美登利鮓の久保登一の返事に、節分に巻きずしを食べる風は大正初めにはすでにあった。おもに花街で行われ、ちょうど新こうこうが漬かる時期なので、その春の香の物を芯に巻いたノリ巻きを、切らずに全のまま、恵方のほうへ向いて食べる由。老浪華人の[塩路吉兆老も今日まで知らなんだ、と言われる。もちろん、私も初耳だ。普通の町家ではあまりやらないようだ。全国ではどうだろうか。
— 篠田統、 すしの本、1970年」