忘却の家
母は、一輪の向日葵のように笑って、
私の名を忘れてしまった。
それは、夏の夕暮れにふっと灯が消えるような、
あまりにあっけない、手品のような出来事であった。
私の名を忘れてしまった。
それは、夏の夕暮れにふっと灯が消えるような、
あまりにあっけない、手品のような出来事であった。
「どなたでしたかしら」
その丁寧な言葉の礫(つぶて)が、
私の胸の、いちばん柔らかな場所を正確に射抜く。
ああ、神様。
これは罰でしょうか。それとも、母への贈物でしょうか。
その丁寧な言葉の礫(つぶて)が、
私の胸の、いちばん柔らかな場所を正確に射抜く。
ああ、神様。
これは罰でしょうか。それとも、母への贈物でしょうか。
母の頭の中では、
昨日と今日が、まるで古い活動写真のフィルムが千切れるように、
ちりぢりに、あべこべに繋ぎ合わされている。
かつて私を叱ったあの凛とした声は、
いまや、迷子の子供が口遊む歌のように頼りない。
昨日と今日が、まるで古い活動写真のフィルムが千切れるように、
ちりぢりに、あべこべに繋ぎ合わされている。
かつて私を叱ったあの凛とした声は、
いまや、迷子の子供が口遊む歌のように頼りない。
私は、道化(ピエロ)のように微笑ってみせる。
「いいんですよ、お母さん。私も、自分の名前なんて、
さっきから思い出せなくて困っていたところなんです」
そんな嘘をつきながら、
胸の中では、泥のような悲しみが
静かに、けれども確実に堆積していく。
「いいんですよ、お母さん。私も、自分の名前なんて、
さっきから思い出せなくて困っていたところなんです」
そんな嘘をつきながら、
胸の中では、泥のような悲しみが
静かに、けれども確実に堆積していく。
母は、死ぬまで私を忘れ続け、
私は、死ぬまで母を覚え続ける。
なんと滑稽で、残酷な、美しい約束だろう。
私は、死ぬまで母を覚え続ける。
なんと滑稽で、残酷な、美しい約束だろう。
いまはもう、母はいない。
風の鳴る夜、ふと思う。
あちらの世界で、母はようやく思い出しただろうか。
あの時、名も知らぬ男に林檎を剥いてくれた、
その男こそが、自分の出来の悪い息子であったことを。
風の鳴る夜、ふと思う。
あちらの世界で、母はようやく思い出しただろうか。
あの時、名も知らぬ男に林檎を剥いてくれた、
その男こそが、自分の出来の悪い息子であったことを。