二つの夕陽
母は、二つの泥棒に追われていた。
一つは、母の記憶を少しずつ剥ぎ取っていく、あの静かな忘却の精。
もう一つは、母の体を内側から蝕む、癌という名の不機嫌な獣。
一つは、母の記憶を少しずつ剥ぎ取っていく、あの静かな忘却の精。
もう一つは、母の体を内側から蝕む、癌という名の不機嫌な獣。
「あら、今日はどちらの御方?」
癌の痛みで顔を歪ませながら、母は淑女のように問いかける。
自分の細胞が悲鳴を上げているというのに、
頭の中の帳面からは、私の名前さえ綺麗に消し去られている。
癌の痛みで顔を歪ませながら、母は淑女のように問いかける。
自分の細胞が悲鳴を上げているというのに、
頭の中の帳面からは、私の名前さえ綺麗に消し去られている。
神様、あんまりではありませんか。
これでは、どちらが本当の母なのか。
痛みにのたうち回るのが母なのか、
それとも、すべてを忘れて花のように微笑んでいるのが母なのか。
これでは、どちらが本当の母なのか。
痛みにのたうち回るのが母なのか、
それとも、すべてを忘れて花のように微笑んでいるのが母なのか。
「お腹が痛いの。でも、どうして痛いのか忘れてしまったわ」
母は、冗談のようにそう言って、弱々しく笑った。
それは、悲劇というよりは、あまりに出来の悪い喜劇のようであった。
母は、冗談のようにそう言って、弱々しく笑った。
それは、悲劇というよりは、あまりに出来の悪い喜劇のようであった。
肉体は病に焼かれ、精神は霧に溶けていく。
私はその、崩れ落ちていく伽藍(がらん)の傍らで、
ただ、冷たくなった母の手を握る。
その手だけが、かつて私を抱き上げた確かな重みを持って、
私に「生きろ」と、無言の命令を下している。
私はその、崩れ落ちていく伽藍(がらん)の傍らで、
ただ、冷たくなった母の手を握る。
その手だけが、かつて私を抱き上げた確かな重みを持って、
私に「生きろ」と、無言の命令を下している。
やがて、母は二つの泥棒から解放された。
何も持たず、何も覚えず、ただ一点の汚れもない
真っ白な魂になって、夕陽の向こうへ歩いていった。
何も持たず、何も覚えず、ただ一点の汚れもない
真っ白な魂になって、夕陽の向こうへ歩いていった。
今ごろ、あちらの岸辺で、
母は自分の病を知り、自分の忘却を知り、
そして、私の名を思い出しながら、
「まあ、なんて大変なことだったのかしら」と、
いつものように、可笑しそうに笑っているに違いない。
母は自分の病を知り、自分の忘却を知り、
そして、私の名を思い出しながら、
「まあ、なんて大変なことだったのかしら」と、
いつものように、可笑しそうに笑っているに違いない。