まどろみ

日記

そして蛇口を閉める。

部屋はまた静かになる。

冷蔵庫の音。
遠くを走る終電。
誰にも気づかれない程度の夜。

洗面台の縁に手をついていると、
ふと気づく。

忘れたかったわけではなく、
思い出したかったわけでもないのだと。

古い本に挟まった栞のように、
ただそこに残っていただけ。

開く予定のなかったページを、
たまたま風がめくっただけ。

だからだろうか。

胸を締めつけるほどではないのに、
胸のどこかが確かに反応する。

傷というには穏やかで、
思い出というには生々しい。

マウスウォッシュの香りが薄れていく。

夜も薄れていく。

けれど、あの頃の自分だけは、
不思議なくらい色褪せない。

何も手に入れていない顔で笑い、
何も失っていないつもりで立っている。

その無防備な背中を見ていると、

人生は案外、
手に入れたものではなく、

言えなかったひと言や、
届かなかった視線や、
渡せなかった何かで出来ているのかもしれないと思う。

鏡の灯りを消す。

暗闇の中で、
最後に残ったミントの気配が、

遠い季節から届いた
短い手紙のように、

しばらく口の中で揺れていた。


#日記広場:日記