ジョーカーの冬の国より~その3
やがて穏やかな風が花の香りを運んできた。鮮やかなピンク色が視界のあちこちでざわめいて、花びらを散らす。桜の木だ。
ハートの城の領地は「春」となっている。「冬」からやってきたアリスには、とても暖かい気候に感じられた。
「気持ちいいわね。桜も綺麗だし」
城下町はいつにも増して賑やかだ。アリスもつい露店などを覗き込んで、寄り道してしまう。
まさに春の陽気といったところ。心までぽかぽかしてくるようだ。
「絶景ね! 毎日見ても飽きそうにないわ」
城までの長い坂道も苦にならず、高い位置からの景色に感嘆してばかり。
そのつもりでいたいのだが。
「ええ、ええ! どうぞ毎日見に来てください! 何なら僕と一緒にハートの城に住みませんか? それならいつだって、この景色はあなたのものですよ、アリス」
しかし、さっきから後を着いてくる不審者を、いい加減無視できなくなった。ハートの城で宰相を務めるペーター=ホワイトである。
アリスにだけは従順な彼には、怒りも軽蔑も通用しない。アリスは大きく息を吐いてから、できるだけ口調が刺々しくならないように、指摘した。
「……ペーター。前に私、勝手に着いてこないでって、あなたに言ったわよね?」
宰相閣下が城下町にいたのだ。道理で、城下町の人々がアリスのやや後方に注目するわけで。
(このおと、いやウサギは……)
ばれていないとでも思っていたのだろうか。
残念ながらペーターには悪びれた様子が微塵もない。
「はい、ちゃんと憶えていますよ。僕は賢いウサギですから。ちょうど僕も城へ戻るところだったんです」
「白々しいわね……大体、あなた、人ごみは嫌いじゃなかったの?」
本当に賢いウサギなのなら、もっと早くに声を掛けてくれればよいのに。
ペーターの顔色が露骨に不機嫌なものに変わる。
「城下町まで僕が直接行かなければならない用件がありましてね、まったく、最低の気分でしたよ。……ああ、でも、あなたに会えたのですから、今の僕は幸せです!」
その顔に、今度は明るい笑みが咲く。
「本当はもう少し、あなたの可憐な後ろ姿に見惚れていたかったのですけれど」
「やめて頂戴」
どうやら彼の頭の中も春らしい。勢い負けする形で、アリスは再び坂道を登り始めた。
ようやく今回の目的地である、ハートの城に到着する。
彩度の強い赤色が視覚的にちかちかする。ハートで彩りまくられた、この奇抜な芸術作品こそ「ハートの城」である。
兵士やメイドたちはアリスの姿にほっとした様子だ。冷血宰相のペーターと一緒でなければ、総出で歓迎されているところだ。
「ささ、アリス。僕の部屋で心地よい春を過ごしましょう」
「暑苦しいの間違いでしょ。私はビバルディに会いにきたの」
はてさてハートの城の女王様の機嫌はどうだろう。あらかじめ連絡しておいたから、アリスのために時間を空けてくれているとは思う。しかし時間帯が「昼」というだけで、女王様が苛々するには十分な理由である。
(ビバルディに会う時だけ夕方に……なんて都合よくはいかないか)
生垣で囲われた中庭のほうからは、ヒステリックな声がした。
「アリスはまだか? 退屈も限界じゃ。イライラする」
「ビバルディ!」
慌ててアリスは、お茶会の席に駆け込む。
そこには、屋外にしては豪勢なテーブル一式が用意されており、数人のメイドがちょうど茶菓子を運んでいるところだった。中でも強烈に存在感のある、深紅のドレスをまとった女王が、この城の主、ハートの女王ビバルディである。
ストレスが溜まると、目が合った使用人を処刑してしまう、残酷な女王様。しかしアリスにはとても好意的で、会えばストレスなど吹き飛ぶらしい。
「おお! きてくれたか、アリス」
さっきまでの剣幕が嘘だったようになくなり、嬉しそうに微笑む。
「お前はもっとわらわに会いにきて、わらわを退屈させないでおくれ。エイプリルシーズンに入ったおかげで、よい茶葉が手に入ったのだぞ。わらわだけで楽しむのもつまらぬ」
「ありがとう。ビバルディが言うのだから、間違いなく美味しいのでしょうね」
アリスも作ったものではない笑みで応える。
アリスのおかげで生死の緊張感から解放されたメイドたちが、てきぱきと動く。しかし、この場で唯一の男性もしくはオスは、棒立ちでうろたえていた。
「……アリス? 僕の席はどこですか?」
席はふたつ。ビバルディとアリスのためのものであって、数はぴったり。
まだまだつづく。