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得宗北条はこうして天下を征服した その18

建保3年(1215)1月6日。鎌倉幕府初代執権の北条時政死没。三代将軍源実朝を暗殺して平賀朝雅を四代将軍につけようと画策した牧氏事件で、義時、政子との政治的な対立から鎌倉追放となった時致は伊豆国北条で腫瘍のため病死。享年78。源頼朝が奥州平泉討伐の戦勝祈願のために建立した願成就院にあり、二代執権...

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得宗北条はこうして天下を征服した その17

建暦三年(1213)2月15日。信濃源氏の泉親衡が頼家の三男の千寿丸を鎌倉殿に擁立しようとした陰謀が発覚。泉親衡は捕縛にきた鎌倉勢と戦って混乱に乗じて逐電。事件に関係したとして和田義盛の嫡男の義直、義重、甥の胤長らが捕縛された。 3月8日。鎌倉へ戻った和田義盛は将軍に一族の赦免を嘆願、長年の勲...

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得宗北条はこうして天下を征服した その16

修善寺はもともと北条氏の地元で、高田崇史「神の時空 鎌倉の地龍」によると、日光の中尊寺と同じ、鋳銭司からきているという。貨幣鋳造のことで、修善寺も中尊寺も産鉄地だった。北条氏は産鉄民であり、鍛冶は力の源だった。 範頼、頼家が殺された修禅寺の当たりは桂谷と呼ばれ、高田崇史「QED 鎌倉の闇」では...

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得宗北条はこうして天下を征服した その15

元久元年7月18日。修禅寺の源頼家を北条氏が襲撃して殺害する。 「吾妻鏡」7月19日条では、「昨日、十八日。左金吾禅閤、年廿三。当国修禅寺において薨じたまふの由、これを申すと云々」と素っ気なく記すだけ。 「愚管抄」によると、頼家が修禅寺前の筥湯に入っているところを北条氏の武士が襲撃。頼家が激...

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得宗北条はこうして天下を征服した その14

建久10年(1199)1月20日。源頼家は左中将となり、同月26日家督を継いで第2代鎌倉殿となる。しかし、わずか3ヵ月後の4月12日には頼家が訴訟を直接裁断することが禁じられて、十三人の合議制が敷かれることとなった。十三人は大江広元、三善康信、中原親能、二階堂行政、梶原景時、足立遠元、安達盛長、...

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