一つ積んでは母のため…
なぜか「積む」「積み上げる」という言葉を見ると…
安寿は、
「一つ積んでは父のため、一つ積んでは母のため」
という賽の河原で石を積む水子の霊と、
その水子を救う地蔵菩薩を思い浮かべてしまいます。
(なんか連想が飛躍しすぎ!)
水子、
つまり死産・流産してしまった子どもは、
名前をつけてもらえなかったため、
死んだ後、
閻魔様の前に立っても、
閻魔帳には名前が載っていない。
ですから、
水子たちは極楽はおろか地獄へも行くことができず、
その成仏できぬ霊魂は、
三途の川にある賽の河原、
この世とあの世の境目に留まり続けなければならないのです。
そして、
親に恩を尽くすことなく
この世を先立ってしまった我が身を嘆いて、
水子の霊たちは、その幼い掌で、
賽の河原で果てしなく石を積み続けるのでありました。
あたかもこの世で成し得なかった親への功徳を積むかのように。
でも、水子の霊が目障りな鬼たちは、
時々賽の河原にやってきて、
水子が積んだ石塔をガラガラガラと崩してしまう。
とはいえ、どこにも行き場のない水子の霊たちは、
賽の河原で親を思い、
石を積むより他に成す術がない。
「一つ積んでは父のため…」
ガラガラガラ…
「一つ積んでは母のため…」
また、ガラガラガラ…
どこまでも果てしなく続く
虚しく儚い営みに、
一縷の望みがあろうはずもなく…。
ですが、
そのような光景を遠くより眺めて、
心を痛めていた方がおられまして、
見るに見かねて、
全てを救い収めようと、
賽の河原に現れたのが地蔵菩薩でございます。
そして、
水子の霊をあまねく救い、
極楽浄土へお連れくださったという、
ありがたい説教節の一節。
ですから、
今でも日本各地に残る賽の河原には、
累々と積み重なる石が残され、
水子の霊を慰めんと置かれた風車が、
寒風の中を回り続け、
そして、地蔵菩薩の御姿が祀られているのでございまして、
地蔵菩薩が坊主頭であるのは、
それが赤子の容姿であるからに他なりません。
南無地蔵菩薩、南無地蔵菩薩…。
(どうしてチョコの話題が、
こんなお話になってしまったのでございましょう?)
安寿
2011/02/22 21:29:30
(^^ゞ ココログの方は、とんとご無沙汰していて、
まったく更新していないのです。
現金な私は、
無料コインがもらえるニコタのブログばかりを、
せっせと書いているのです。
副業が本業になってしまったようなものです。
深く反省…。
つむぎ
2011/02/22 01:34:10
大変興味深く読ませていただきました。
どうもありがとうございます。
ところで、ココログのほうのURLを教えていただくことは可能でしょうか?
そちらも読んでみたいのですが…。
いえ、無理ならそれでも構いません。お気になさらず^^
沖野
2011/02/21 23:09:23
『安寿と厨子王』は
安寿さんの影響で読みました。
わたしは説話集をあまり知らないので
安寿さんの解釈はとても興味深いです。
いま『雨月物語』を読んでいます。
以前、安寿さんがコメントで触れられていたのですが、
わたしは読んだことがなかったので。
ぜひまた、いろいろ教えてください。
安寿
2011/02/21 22:58:45
説話調の文章が書けるかなと試してみました。
芥川龍之介『蜘蛛の糸』がお手本です。
『安寿と厨子王』のお話も元は説教節です。
厨子王は、…盗賊にさらわれた息子は、
いつか母の元へと戻り、
立派に家を再興しても、
安寿は、 …盗賊にさらわれ、あるいは金で売られ、
いずれにせよ、慰みものにされ、殺された娘の顔を
親が再び見ることは叶わない。
でも、安寿の死は、厨子王を母の元へと戻すための踏み石、尊くも哀れな犠牲…。
そのように娘の死を説教節によって合理化され、
娘を売らねばならなかった親たち、
もはや娘に合わせる顔がない親たちは、
不憫な娘と罪深い我が身を悔いて泣き、
泣くことで昇華されるのです。
ですから、この手のお話は、
子を失ってしまった親のためにあるのだと思います。
なんちゃって…。
沖野
2011/02/21 22:17:11
水子のことも地蔵菩薩の話も
はじめて知りました。
ありがたいお話を聴きました。