おにぎり
『おにぎり』
もう何も食べられないあなただけど
事ある毎にこっそりと
二人で透明のおにぎりを
握っては食べている
哀しみと幸せを
ぎゅうぎゅう握りしめたおにぎりを
毎日毎日握っては
胸一杯になるまで食べている
食べ過ぎて
涙がこぼれ落ちてしまうほど
二人は必死になって食べている
だってもうすぐ終わってしまう…
だから食べる
今の内に食べる
こんなことは
もう二度とないのだから
欲張ってでも食べる
おいしいねぇ
ほんとにほんとに
おいしいねぇ
そうやって二人は
あの時を確かに
充ち満ちて過ごし…
* * *
そして四十九日
残された私は夜更けに一人
おにぎりを握っては食べている
頼りないこの身に
少しは力をつけようと
あの日々を握りしめては
心の隙間へと放り込んでいる
そばにいる人に
そっと差し出す透明なおにぎりを
いつかまた握れるようになる
その日まで
2000/09/28初稿
2002/03/19改稿
2012/03/31三稿
安寿
2012/04/02 21:39:21
>鳩羽さん
えへへ、気がつきました?
こういう風に安寿は、
細かく細かく推敲を重ねていくのです。
今の自分に一番ぴったりする表現に近づけるために。
それが私にとっても救いとなるのですから。
それは情景だけでなく、
たとえば音の連なりだったりもします。
「…事ある毎に
こっそりと…」
ここがこのように変化しているのは、
読んだ時、朗読した時、
「こ」の音が重なり、しかもリズム感がいいからです。
こういう修辞的な技法と描きたいテーマは、
実は切り離せないものではないかと思っています。
(この鳩羽さんのコメントをいただいた後も、
さらに修正が入っています。本当に微細なところですが…)
記録にあるように初稿からもう12年たっているのですが、
こうしてその時々の自分にとって、そして読む方にとって、
一番適切で洗練された表現になればいいと思っています。
過去の題材の中で、この作品が一番、
鳩羽さんの現在に寄り添えるかなと思って、
アップしてみました。
ありきたりの慰めをかけるより、
思いの表出/表現の方が、
時として深くその人を救済するからです。
そして、表出/表現は、
今の気持ちを直接語るよりも、
修辞・レトリックに配慮した方が確かに伝わるのです。
もしそれができていれば、
修辞・レトリックは単なる美辞麗句や虚飾ではありません。
それは「高貴な嘘」に近いものであり、
「舞台上の真実」「幻が語る真理」とも言えます。
鳩羽
2012/04/02 20:26:02
「と」が増えたせいでしょうか・・・つぶやきが落ちるような
訥々とした雰囲気になっている気がします。
「消化不良の」という修飾がそぎ落とされ、「あの時」となったところから
ゆっくりと過去になっている、つまり消化されているのだと言う印象を
受けました。
そして四十九日。
はっきりと「一人」という記述が増えたことによって、二人という形との対比ができました。
独立とも取れるし、人を傍に受け入れる前の優しい隙間にも見えます。
私のコメントに頂いた詩と比べて、こちらの詩の方が後半の四十九日に焦点が合ってると思いました。