安寿の仮初めブログ

安寿

これは、ニコットタウンに現れた安寿の仮想ブログです。

再挑戦、河瀨直美監督『光』

映画

以前、ブログに書きかけたのに、
アクセス不良から、
保存していた部分を残して、
その大部分が水泡に帰してしまった
河瀬直美監督の最新作『光』への批評。
しつこく、ここでもう一度、再挑戦してみます。

一人湯治合宿の最終日、
送迎の車が出るまでの間、
休憩場でこんな文章を書くだなんて
私って一体に何もの?   ☆\(ーー;


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この映画は、とても複雑な構造と仕掛けを持つ作品です。

まず、この映画は、
視覚障害者のために、
映画の音声ガイドを作成する過程が
物語の軸になっているのですが、
映画の音声ガイドという仕事自体は、
新たに映画を一本制作しているようなものと言えるでしょう。

スクリーン上に描かれている出来事を説明しただけでは、
見えていることを伝えはしても、
映画という作品を伝えたことにはなりません。
登場人物の表情やしぐさに現れた感情、
あるいは、画面全体の構成や展開から観客が受けとるインパクト…
そういった事柄も伝えなければ、
映画という作品を伝えたことにはならないのです。

ですが、作品として伝えようとすれば、
作品の最初の受け手である音声ガイド制作者の、
映画に対する受容力や解釈力が問われることになります。

スクリーンの中で起きた出来事の意味を
音声ガイド制作者が受け止めきれていない、
理解できていないということが当然起こりますし、
月並みに受け止め、月並みに解釈すれば、
作品自体をとても凡庸なものにしてしまいます。
時には映画を自分流に勝手に解釈し、
自分の解釈を視覚障害者の人々に押しつけることにもなりかねません。

ですから、音声ガイド作成者には、
映画をどこまで深く受け止めるか、
シーンに潜む隠された意味や感情、
時には映画監督さえも意図しなかったシーンの意味を読み取り、
提示してみる大胆さと、
しかし、どこまでも映画そのものに忠実であろうとして、
安易な解釈に映画を委ねたりはしない誠実さ、
この相反する二つの姿勢が求められるのです。

そして、ここまでくると、
音声ガイド作成者の仕事は、
見る映画を素材にしながら、
聞く映画を新たに一本制作するという、
それ自体が一つの映画制作と言えるように思います。
音声ガイド制作者の、
映画制作者としての厳しさと葛藤が丁寧に描かれている点で、
そして、その丁寧な描き方が、
音声ガイド制作者という仕事の魅力と可能性を伝えている点で、
この映画はこれから先、この仕事へと多くの人を誘うことでしょう。


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しかし、この映画の仕掛けはまだ他にもあります。

『光』は映画の音声ガイド制作者の姿を描く映画ですから、
『光』という映画の中には、主人公が音声ガイドをつけようとする
もう一つの映画があります。

劇中劇ならぬ、映画中映画があるわけです。

  この映画も、河瀬直美監督が、
  独立した短編映画として撮っています。

つまり、『光』という映画の中に別の映画があり、
その映画の解釈と伝え方に葛藤する主人公がいるという
物語の構図があるわけですが、
この構図は、
今、『光』を見て、そこで起きている出来事を受け取り、
その意味を推し量ろうとしている
私たち観客の姿に重なります。

そして、凡庸な映画音声ガイド制作者が、
その凡庸な受け止め方によって
映画を台無しにしてしまうように、
凡庸な観客もまた、
その凡庸な受け止め方によって
映画を見失うのです。

ですから、『光』という作品は、
観客に対してかなり挑戦的で、
映画に対して真剣に向かい合うことを求めてくる映画なのです。

  「あなたは、この映画をしっかり見ていますか。
   自分の五感や過去からの蓄積をフル動員して、
   この映画と向き合っていますか」

茶道が娯楽ではなく、求道であるように、
映画を見るということも娯楽ではなく、
この映画を見極めようとする観客の真剣なまなざしを伴って、
初めて映画は見えてくるのです。

これは、
  「私はとても高尚な映画を撮った。
   この高尚な映画を鑑賞しうるのは、
   この映画がわかる審美眼を持った高尚な観客だけだ。
   お前もこの映画がわかるだけの審美眼を身に付けろ」
といった尊大な態度とは、およそ真逆の、
  (そんな「高尚」な人々を、
   幸いにして私はまだ知りませんが、
   自分の自信のなさを、
   他人を見下すことで振り払い、
   仲間内の閉ざされた世界で
   お互いをヨイショしながら生きている手合いなら
   この世の至るところに蔓延っていそうです)
映画とは…、
否、映画に限らず、
あらゆる表現行為は、
送り手と受け手の相互作用の上に成立するものであり、
したがって、表現を素晴らしいものにするのは、
表現者のみの営為だけではなく、
鑑賞者の主体的な参加を必要とする…。

ですから、この映画は、
鑑賞という行為を通じての、
観客の映画制作への参加を求めていると言えるでしょう。

映画鑑賞とは、出来上がった映画を見ることではなく、
見るということを通じての映画制作への参加であり、
表現者と鑑賞者の切った貼ったの真剣勝負があって、   ☆\(ーーメ)  ヤクザ映画か

初めて映画は、一人一人の個別な映画体験として完成するのです。
映画とは、制作者と観客の相互主観的な芸術行為である…
その芸術行為への真剣な参加を観客に求めてくるという点で、
この映画は、観客への果たし状を突きつけているようなところがあります。
自分を試されるという点で、とても怖い映画なのです。  ☆\(ーーメ) ホラー映画か

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一回で全部書き切らなかったので、
続く。