舞台版『ねじまき鳥クロニクル』を見てきました。
コンサートやスポーツにおいて、
中止や延期、無観客試合といった措置が講じられていますが、
そんな中、
東京芸術劇場に、
村上春樹原作、
インバル・ピント、アミール・クリガー演出の
『ねじまき鳥クロニクル』を見てきました。
村上春樹の作品は、
映画化よりも舞台化に向いているように思います。
不条理で、隠喩や象徴に満ちた作品世界を可視化する際、
舞台という表現形式の方が、おそらく向いているのでしょう。
蜷川幸雄演出の『海辺のカフカ』も、いい感じの舞台でした。
加えて、今回の公演は、
最近の演劇の特徴とも言えますが、
音楽や身体表現と深くコラボレートした舞台でした。
そのような表現を期待して、
この芝居のチケットを購入していたのです。
例えば、2018年1月に再演された
手塚治虫原案、浦沢直樹原作
シディ・ラルビ・シェルカウイ演出
『プルートー』も、
シェルカウイ自身がダンサー&振付家からキャリアを初めた人であったように、
ダンサーやパペットによる表現形式を積極的に採り入れた舞台でした。
そして、そのような表現形式は、
人間に近くなり、人間の心を持つようになったロボットたちの、
ギクシャクとした身体と心を表現する上で、
とても効果的な方法でした。
今回見た『ねじまき鳥クロニクル』も、
役者は、役をもっぱら演じるという人ではなく、
「演じる・歌う・踊る」人々という位置づけですし、
ダンサーは、「特に踊る」人々です。
演奏は、三名。
この舞台において特筆すべきなのは、
簡素な舞台セットでありながら、
その壁や床やソファから人間たちが湧いて出てくる表現であり、
そのような人間たちが主要な登場人物に絡みついていく姿が、
彼らの社会関係のひずみというか、
抜き差しならぬしがらみを象徴しているかのようでした。
これは、村上春樹が『ねじまき鳥クロニクル』の中で試みた
「壁抜け」という表現の視角化でもあるのでしょう。
その点で、この芝居は、
『ねじまき鳥クロニクル』のお話を上演する芝居というよりも
『ねじまき鳥クロニクル』を題材にした
パフォーミング・アートのような芝居でした。
ただ、このような表現が、
主要人物たちの会話と同時並行して行われると、
私の意識は、奏でる音楽や揺れ動く肉体の方に向かってしまって、
会話の方に向かいません。
何か話しているんだけど、その会話が邪魔。
でも、その会話には、
物語を次へと進ませる内容も含まれているから、
私の意識は、途中から話の内容を追い始めるのだけれど、
しかし、途中からだから、何を話しているのやら…。
そんな思いをすることも、多々ありました。
そして、そんなシーンは、得てして単調かつ退屈であり、
眠気を誘ったのも事実です。
会話と身体表現を並行させて表現することに無理があるのか、
それとも、どちらの表現も訴求力において欠けるものがあったからか。
いずれにせよ、
会話で芝居を進めるのか、
それとも象徴的な表現を見せるのか、
場面の役割と会話を、
整理する必要があったのではないでしょうか。
この公演は、初演なので、
これから先、再演を繰り返していくことで、
場面の役割や会話が、
整理されていくことを期待します。
と、ここまで書いて気がついたのですが、
この公演も、私が見た日を最後にして、公演打ちきりとなってしまいました。
この後、大阪・名古屋公演と続く予定ですが、
それもどうなることやら。
なんかギリギリで
舞台を目撃することに成功しています。
『ねじまき鳥クロニクル』公演HP ↓
https://horipro-stage.jp/stage/nejimaki2020/