忘れられない先生
幼稚園の時の先生は、とてもやさしくて大好きだった。
その先生は私と同時に入られて、私の2年と妹の2年を働いた後、結婚退職された。
一度お宅に遊びに行ったことがある。
小学1、2年の時の先生は年配の女性で、ちょっぴり厳しくて、忘れ物をしたときはドキドキしたけれど、いい先生だった。
この先生のお宅にも、2年生の春休みに遊びに行った。
先生は、担任が解けたらそのクラスの子たちを一度だけ家に招くことにしているのだそうで、中2階の部屋がある家は珍しく、みんなでたくさん遊ばせてもらった。
川沿いを歩いて、ガマの穂は焼くと食べられると聞き、どんな味か気になっていたのに、いまだに食べたことがない。
小学4,5,6年の担任は定年近くの男の先生だった。
戦争当時の話をたくさん聞いた。
先生は少年兵になりたくて運動に励んだけれど、背が足りなくてはねられたんだ、と悔しそうに話していた。
この先生が担任の間、体育の成績はずっと2だった。
今までの先生は授業態度がまじめならお情けの3をくれていたが、この先生はその時の基準技能に達してないからダメ、という方だったのだ。
それは納得できる。
だが、毎日何年も頑張ってやっと5年で逆上がりができるようになったので、嬉しくて「先生、見て」と言ったら「そんなの今頃できてももう成績にならないから」と言われた時は頭にきて「別に成績なんか関係ないでしょ。今までずっとできなかったことができるようになったから、その努力を見てほしいだけです」と怒鳴ってしまった。
多分、先生に怒鳴ったのはこれが最初だったんじゃないかな。
普段おとなしい生徒だったので、先生はかなり驚いていたようだった。
中学は校内暴力の真っただ中で、毎日スケバングループに「顔貸しな」と言われる毎日だった。
何をされるかわからないからトイレは職員室前のみを使い、休み時間は図書室にこもり、授業が終わると部活のある理科室に走った。
地学生物部は私以外男ばかりだったから、女性不振に陥っていた私のパラダイスだったのだ。
2年の、一番(私の主観では)いじめが激しかったころ、担任だった国語の先生が「今日誕生日だろ」と文庫本をくれた。
「グリコはこういう皮肉なの、すきそうだから」と『悪魔の辞典』。
どういう趣味だ、と思ったが「ほかのやつにはあげてないから内緒にしとけよ」と言われたのが嬉しかった。
中3の担任はちょっとドジで、自転車に乗っていてうっかり電柱にぶつかったり、校庭でふざけている生徒を叱ろうとして、窓が閉まっているのに気づかず頭突きしてガラスを破ってしまったりする人だった。
このクラスでは席替えのたび、なぜか番長と隣だったり前だったりして、なんだか無茶苦茶大変だった。
2年の終わりに手下どもが図書館の本をストーブで焼いたことがあり、激怒して「手下のことくらいちゃんと見張っておけ!」と怒鳴りこんだことがあったから、すごまれたり、からかわれたり、まあいろいろあったのだ。
だがテスト前に勉強を教えたりするうちにその手下どもにも話しかけられるようになり、スケバングループからの呼び出しは少なくなっていった。
卒業式の後のクラスの謝恩会で、先生が母に「グリコさんはしっかりしているから、いつも席替えのくじをごまかして大変な子のそばにさせてもらっていたんですよね」と言ったそうだ。
おい、先生、どういうことだ、と思ったが、卒業したので文句も言えなかった。
高校の先生は、どの先生もエピソードだらけでとても話しきれるものではない。
敬虔なクリスチャンなのに「キリスト教全盛の時代は哲学の暗黒時代なので飛ばします」と言って「ソクラテスの弁明」を教材に生徒たちに討論させる倫理の先生とか、平均より20点も下なのに、それまでよりはいい点になったからと「すごく良く頑張りました!」とみんなの前でほめてくださった英会話の先生とか、「家で一浪していいと言っているなら受験はどうでもいいから、とにかく卒業を目指しなさい」と受験指導してくださった先生とか(毎年留年ギリギリの成績だった)。
同窓会に行くと、当時の先生が「あなたのことはよく覚えてくるわ」と言ってくださるが、ずいぶんご迷惑をおかけしました。